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ジョセフ・ゴードン=レヴィット演じる主人公はシアトルの公営ラジオ局で制作を担当する27歳。
恋人である現代芸術家のプライス・ダラス・ハワードとの仲は、彼が男性としては几帳面すぎる性格のせいか、最近あまりうまくいっていない。
レヴィットの同僚のセス・ローゲンは几帳面で淡泊なレヴィットとは正反対にややガサツで女好きだが、ふたりは高校の頃からの親友であり互いのことはよく知っている。
体の変調に気付き病院で診断を受けたレヴィットは医者より脊髄部に浸食した重度のガンであることを宣告される。
ウェブで調べた情報によると5年以内の生存確率は50%。打ち明けたローゲンからは「悪くない数字だ。カジノなら勝てる」と楽観視され、ハワードには自分から別れることも勧めるが「大丈夫、私が面倒を見るわ」と受け入れられる。
物語のプロローグ的な部分であるここまでの描写はスピーディーだが、映画はこのあとから徐々におかしく(可笑しく)なる。
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レヴィットは両親を自宅に呼び、ハワードと共に自分がガンであることを告白する。
ヒステリー気味の母親アンジェリカ・ヒューストンは「いつ判ったの?2日前?なんで2日間も黙ってたの!?」「緑茶を入れてあげる。緑茶はガンの発症率を15%低減するのよ」と動転し、アルツハイマーを患う父親は目の前で起こっている事象を理解できない。
ハワードは「犬は人を癒すのよ」と保健所から痩せこけた老ハウンド犬を引き取りレヴィットに押しつけるように飼わせる。
ローゲンはレヴィットがガンであることをネタに女性の同情を惹くナンパを繰り返す。
病院で紹介されたセラピストのアナ・ケンドリックは自分よりも年下の研修生で、レヴィットへの接し方は不器用なことこの上なく、なにかとレヴィットを苛立たせ、セラピーどころではない。
周囲の人間の言動がどれも自分の感情とかみ合わず、独り静かに当惑するレヴィット、というシチュエーションは、突然自分が異文化に放り込まれた状況を描く”カルチャーギャップ・コメディ”と同じで、その微妙な”かみ合わなさ具合”が可笑しい。
なにしろガンを患うレヴィット当人も、自分の状態について正確に把握できておらず、初めての病院での抗ガン剤治療で出会う先輩患者から”ハッパ入りのマカロン”を勧められてハイになった状態でガン病棟を徘徊し、ストレッチャー上の患者を見てわけもなく微笑んだりする。
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恋人として当初は甲斐甲斐しく彼の面倒を見ていたハワードの態度も、次第に距離ができはじめる。
レヴィットをネタにナンパした書店員をデートに誘ったローゲンは、ハワードの芸術個展の会場でハワードの浮気現場を目撃する。
その夜レヴィットとハワードの前で”証拠写真”を防露し、ハワードを追い出すローゲン。
このあたりから、レヴィットの混乱を助長するだけの周囲の言動のおかしさは”可笑しい”ではなく”不可解”の色が濃くなりはじる。
しかし、ガツガツするローゲンと対照的に女性に対しても奥手なレヴィットは、声高に自分の感情を語ることはない。
静かに進行するガンによる疲労感/顔色の変化や、ひとりベットに横になる彼の無言の表情にレヴィットの孤独感が浮彫になっていく。
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ハワードと別れて病院への送り迎えの足(車)が無くなり病院のバス停に座っていたレヴィットをケンドリックが見かけ、車で家まで送ることを提案したことから二人の関係(そして映画のトーン)は変わっていく。
つきあっていた彼と別れたことを運転しながらひとりごちるケンドリック。
「駄目、患者にこれ以上のことは言えない」と言いながら「彼に新しい彼女ができていないかどうか、フェイスブックでチェックしてばかり」と愚痴るケンドリック。
そんなケンドリックの車内はゴミで散乱し、それに我慢しきれなくなったレヴィットは車を道端に停めさせ、ゴミ箱に捨てに走るが、そんなレヴィットの様子には幾分生気が戻っている。
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ガンを宣告されてから「ガン患者とそれを気遣う周囲」という関係でのひとつでしかなかったケンドリックとの関係が「不器用だけど恋したい男と女」という胸がきゅんとする関係に変化するそのパートから、
レヴィットの感情、周囲の関係が少しづつ温かかなほうへ動き始める。
そして彼のガンの進行は止まることはない、
抗ガン剤治療を共に行い、私生活でもやりとりを行っていた老患者の突然の死。
そしてレヴィット自身も自分の体に抗ガン剤の成果はなく、危険度の高い手術を行う以外に選択肢はないことを知らされる。
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自分の生死の問題を心の中に抱えて、手術の前日に激しく感情を高ぶらせ嗚咽するレヴィット。
しかしそれは、自分に対するローゲンや両親の本心、ケンドリックへの自分への正直な気持ちを確認する大事なきっかけでもあった。
手術へ。レヴィットと皆がそれぞれの立場で、手術の経過を待つ。
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映画の前半部分は上に書いたギャップ・コメディとしてずっとくすくすと笑っていた。
しかし後半、ケンドリックの車内でのシチュエーションで、二人の気持ちの距離がぎこちなく近づいていく描写の暖かさにボロボロと涙が出て以降、ずっとぐずぐずと泣いていた。
ガンについての知識も経験もない自分にはリアリティは判らないけれど、これは「人間賛歌」の映画だ。
『50/50(フィフティ・フィフティ)』というタイトルは生存確率の意味とともに、この映画の前半と後半で折り返しで描かれていた”人間関係の機微の表面と内面”、そして”最後のときに笑うのか、泣くのか”という生き方の意味をうまく表したいいタイトルだと思う。
…何よりも、アナ・ケンドリックが、リスみたいで可愛かったです。

