この映画には、キャラクターの心象風景を代弁するようなイメージカットも劇伴音楽もない。
ハンドカメラは常に登場人物につかず離れずの位置から”そこにあるもの”だけを撮し続け、マイクは”そこにある音/声”のみを拾い続ける。
見ること/聞くことのできない対象を捉えることを省き、登場人物の半径数メートルだけを切り取った日常が描かれるのが、ダルデンヌ兄弟の変わらないスタイルだ。
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ベルギーの都市部にて外国人の不法滞在労働者の斡旋・受入を行うロジェと、その息子の少年イゴール。
イゴールの母親の姿は語られない。
ロジェはイゴールに対する支配力を持つと同時に、イゴールに対して精神的に依存している。
ミドルティーンのイゴールは、ロジェの指示・命令のもとで様々な不法行為に加担しているのだが、そこに良心の呵責はない。
働き場所を求める移民がそこに存在し、ビジネスとして彼等から”家賃”や”許可証費用”を徴収している。
そして時には、当局への配慮のため、彼等を誘い出して当局に引き渡すことも厭わない。
それらはすべて社会が暗黙のうちに要請している構造の中で求められる機能であり、自分たち親子はその役割を果たしているに過ぎない。
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そんな生活や、凝り固まった父子関係に何の疑問も持たずに生きてきたきたイゴールだが、不法労働者アミドゥとその妻アシタ、そしてその幼い息子を受け入れ、彼等家族と接する中で、彼の中の何かが変わっていく。
親が子供を慈しむ姿、夫が妻子を気にかける姿、妻が夫の帰りを待ちわびる姿、そしてアミドゥからイゴールに託されたある「約束」が、イゴールの中での新たな価値基準を作っていく。
イゴールがその「約束」を果たすことは、自分に依存する弱い父親を切り離すこと、そして”裁き” ─社会的な裁きだけではなく、アシタという個人からの裁きを含む─ をイゴールが受けることを意味する。
そのことはイゴール自身も理解しており、彼は葛藤する。
果たしていつ、どのような形でイゴールは「約束」を果たすこととなるのか。
先述の、付かず離れずイゴールを見つめ続けるカメラの視線によって、まるで我々もイゴールの共犯者であるように、イゴールの苦悩と緊張感を共有し続ける。
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「約束」のためにロジェと決別し、不法移民であるアシタとあてのない逃避行を続けるイゴール。
しかしその終わりは唐突に訪れる。
イゴールが苦悩の末、ある決断を下したその時、カメラはそれまでの付かず離れずの動きを止める。
ラストシーン、それまでイゴールとアシタに寄り添っていたカメラはその場で止まったまま、駅の通路を歩いていくふたりの後姿を見送る。
ある決断を下したイゴールを解放するかのように。
画面から二人の姿が消えて、映画が黒いエンドロールに切り替わっても、マイクは駅構内のざわめきを拾い続ける。
束縛から解放された心の中に、そのざわめきはこの映画の唯一のサウンドトラックとして流れ込み、響いていく。
それまでのイゴールの行いの意味づけやこれから先の見えない不安、その不安に立ち向かう決意等、諸々の感情を一緒くたにしながら。

