原爆投下から60年が経過した8月6日の夕暮れ。
広島市民球場の目の前、原爆ド−ムの周辺には様々な年齢/国籍の人間が行きかい、太田川には無数の灯篭がゆっくりと漂っていた。
川辺にて灯篭を眺めていたところ、外国人女性から英語で話しかけられた。
「広島での平和教育について、フランス語で話せますか?」
確かそんな内容だったと思う。
「英語ならまだしもフランス語ですか?しかも平和教育?それはちょっと無理です。」
…なんてコミュニケーションが片言英語でも出来るならまだしも、日本人特有のあいまいな微笑みを浮かべていたところ”sorry”と言って彼女は去っていった。
おそらくフランス人のツアーコンダクターだったのかもしれない。
毎年8月6日、広島市民は”ヒロシマ市民”として、たとえ生粋の地元の人間でなかろうと被爆体験がなかろうと、世界と向き合うことを少しだけ余儀なくされる。
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そしてそれから1ヶ月余りが過ぎ、フランス・パリのほぼ中央部に位置するパリ市庁舎に私はいた。
パリ市庁舎は、ノートルダム寺院で有名なセーヌ側の中洲・シテ島から中州にかかる橋を渡ったすぐの場所に位置し、市庁舎の建物自体も17世紀初頭の新ルネッサンス様式の歴史的/芸術的建築物として観光名所となっている。
そこは「60年後のヒロシマ展」が開催されていた。
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看板はあるけれど建物のどこからが展示会場の入口なのか判りづらく少しうろうろする。
その中のひとつの入口に立っていたアフリカ系の警備員の方に”Hiroshima,entre,OK?”と適当コミュニケーションを試み、特にダメ出しが出なかったので小さなドアから建物の中庭へ。
金属探知機により持ち物検査(公共施設で行なわれる催事なのでそんなものだろう)を受けて建物の中に入ると、そこはもう「ヒロシマ展」の展示会場だった。
パーテーションがされた最初のコーナーは日本の小中学生が描いた”反核・平和”をテーマとしたポスターの展示。
各ポスターには、詳細ではないが簡単なフランス語のキャプションが付けられている。さらに奥のほうに進むと3メートル四方ほどの台座があり、中央には巨大な金属製の「折り鶴」のオブジェが位置し、その周囲には実際の折り鶴が無数に置かれている。
その台座のすぐ横の壁に、裸足で歩く皆実の姿が。
『夕凪の街 桜の国』単行本表紙の複製/拡大展示であり、その手前には折り鶴が置かれている。
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皆実の絵のある壁/折り鶴の台座を挟むかたちで向かい会う壁には、中沢先生の『はだしのゲン』の紹介パネルがあった(こちらは一部原画もあった。)。
『はだしのゲン』と並んで、『夕凪の街 桜の国』が日本を代表する原爆漫画(という表現の好き嫌い/良し悪しは別として)として世界に向けて紹介されるようになったことに改めて感慨深いものがある。
その傍には、実際に折り鶴を折って台座の上に手向けるためのコーナーがあった。
フランス人の職員さんが一生懸命折りかたを教えているのだけど、さすがに手つきはおぼつかない(…人のことは言えないけれど)。
以前の情報では「『夕凪〜』の”原画展”」であるという情報もあったが、実際には前述の皆実のイラストを含め、『夕凪の街』と『桜の国』をダイジェストで紹介したパネル(各作品3枚ずつくらい)の展示。
フランス語によるあらすじ(だと思う)が紹介されていたが、わが語力では読解は無理。
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折り鶴や皆実のいるフロアから階段で違うフロアに上がると、そこは現在の核兵器に関する状況のパネル、そしてヒロシマ・ナガサキの惨状を示す写真、目撃者のスケッチ、焼け焦げた当時の生活用品等の展示があった(恐らくは日本の資料館の展示物を一部空輸したものと思われる)。
死体写真やケロイド写真が与えるショックはともかくとして、それ以上に印象に残ったのは、「生き残ってしまった人たち」が自ら描いた、投下直後の自分たちの姿だった。
身内の死体を背中に背負い、死体の焼き場を探す女性(しかし街は全て焼き付くされ、燃えるものは何も残っていない)。
硬直した息子の死体を荷台にくくりつけた自転車を運転する父親。
月並みな言葉だけれど”無念”とはこういうことだ。
愛する者の命だけでなく、生き残った人の気力さえ奪っていった戦争の現実がそこにあった。
展示のフロアは以上の2つで終わり。
平日の昼前に訪問したが、人影はまらであり、果たしてこの展示会が成功であったのかどうか?は判断できない。
しかしこの展示をきっかけに、ヒロシマやナガサキに始めて関心を持った人間がいつか広島を訪れるかもしれない。
その時にフランス語で平和教育の話はできなくても、せめて原爆ドームや平和公園への道案内くらいはできますように。
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市庁舎の外に出ると、秋晴れのパリの青空の下は何もかも美しかった。
パリの街並みは先の大戦の空襲で破壊された後も、平和と美を愛する人々の手により再現されたという。
しかし、次にひとたび大国間の戦争が起こったときには、復元するだけの労力も材料も、そして「パリがいかに美しかったか」を称え伝える人すらも誰一人いなくなるのだろう。



