【息子】
ようこそ
投稿者アーカイブ: 小柴宏海
ようこそ
2006年3月の備忘録
【映画】
リュック=ピエール・ダルデンヌ/ジャン=ピエール・ダルデンヌ『イゴールの約束』(1996/ベルギー、フランス、ルクセンブルク/ビターズ・エンド)
ケン・クワピス『旅するジーンズと16歳の夏』(2005/アメリカ/ワーナー)
性格/ルックス(体型)/出自/家族環境も異なる4人の主人公たちの結びつきや性格を表す幼少時からのエピソード(本篇部分の重要な伏線が含まれている)をアメリカ・フェレーラのナレーションで簡潔に紹介するオープニングに続き、現在の4人がしばしの別れを愛しむために一緒に買物に出かけ、そこで出合う”なぜか4人の誰が履いてもピッタリとする不思議なジーンズ”。
「この4人に合うジーンズだから運命のジーンズなのよ!」と隠れ家でロウソクを立て即席の【旅するジーンズの10箇条】を制定し友情を誓い合う導入部の部分で、既にノックアウトされた。
ミドルティーン(個人的な経験としては”16歳”というより中学校を卒業するまで)の頃までは疑いなく持つことのできた【友情】や【奇跡】を信じることのできる気持ちをいつか人は忘れてしまうけれど、それをふと思い出させるためにこんな映画/こんな場面が存在するのだろう。
その夏、それぞれにとって重大な経験をすることになる4人ひとりひとりの不安な気持ちを、航空便や大陸便で世界を旅する一本のジーンズとそれに託された手紙が繋いでいく。
・
ドラマの描き方としては4人の物語のオムニバス・ドラマとも言えるのだけど、それぞれの物語を最小構成単位でぶつ切りにして再構成し、中盤以降は4人の性格の変化(成長)を紡ぎあわせてラストまでの1本の軸糸に持っていく、その編集/脚本の巧さ。
脚本のデリア・エフロンはノーラ・エフロンの妹さんだそうで、聞くところによればエフロン家は父・母を含めて全員が映画脚本家とのこと。
また、撮影や画面構成も4人の性格/ストーリーに合わせてそれぞれ明確な個別方針が貫かれており、それらの編集の組み合わせによって全体が鮮やかな4色のタペストリーのような仕上がりになっている。
そして4人を演じる女優ひとりひとりが素晴らしい。
・
・
母親を亡くして父子家庭のブレイク・ライヴリー(1987年生まれ)は、高校ナンバーワンの女子サッカー選手として太陽と海が輝くメキシコへの強化合宿の旅へ。
そこで出会った大学生のコーチに一目ぼれして果敢にアタックを開始するが、なかなか煮え切らないコーチの態度に、”不思議なジーンズ”を勝負パンツがわりにライヴリーは宿舎を抜け出し…。
抜群のプロポーションと無邪気な笑顔、裏表なくストレートな性格の良さで同性からも嫌われない彼女だけど、その明るさの裏にあるの、本人も気づかなかった重要な感情と対峙することが彼女にとっての試練でもあった。
勝ち組のWASPガールの見本とも言えるブレイク・ライヴリーの素材のよさは、観ているこちらも”ええ娘じゃねぇ”と惚れてしまう眩しさがあった。
・
・
優しいが気の弱いアレクシス・ブレデル(1981年生まれ)は夏休みを利用してギリシャのサントリニ島の祖父母のもとへ帰郷。
ここでジーンズは彼女とある青年との出会いの橋渡し役となるが、その青年は祖父の代からいがみあってきた家系の末裔だった…。
美人だが内気な彼女は血の流れないミニマムな『ロミオとジュリエット』的状況の中で苦悩する。
普段なら自分を守ってくれるはずの親友3人もいない(そもそも言葉も通じない)、見知らぬ土地の中で自分自身を見つめなおし自らを解放していくエピソードが、パノラマのような地中海の家並みと白壁、青い海のコントラストの美しい風景の中で描かれる。
だがこのエピソートの中で個人的に印象に残ったのは、彼女よりも彼女の祖父母がふと見せる”絆” ─海に面した庭先でタコを紐に干している祖母と、その横でくつろぐ祖父がふと思い出したように、または生活のごく一部のように妻(祖母)を抱擁するシーン─ だった。
ブレデル自身もこの二人の姿を見て自分の思い貫くことを決心するのだが、石田ひかり似のブレデルは、恋によって強くなった少女の姿を”目力”でうまく表現していた。
・
・
”不思議なジーンズ”を発見し夏のあいだ履きまわすことを言い出した張本人であるアメリカ・フェレーラ(1984年生まれ)は、父親とのひさしぶりの再会のためにひとり旅立つ。
幼いころに両親が離婚し母親と暮らしてきた彼女だが、数少ない父親との思い出を大切にし、また強く慕っている。
それだけに彼女は父親の突然の再婚話(それも同年代の二人の子持ちとの)に対して激しく同様する。
プエルトリカン系の母親の血を濃く受け継ぐ彼女は、アングロサクソン系の父そして新たな母・兄弟の中で疎外感を感じてしまい、両親の結婚式を目前にして父親の元から逃げるように地元に帰る。
彼女を救うのはジーンズではなく、ジーンズによってひとまわり成長した3人の仲間たち。
再会した4人が一路父親の結婚式に向かうのがこの映画のクライマックス(といっても派手なものではないが)だった。
・
・
少々ひねくれてゴス系のアンバー・タンブリン(1983年生まれ)は他の3人のように旅立つ先もなく、地元のウォルマート(風のメガストア)でバイトを行いながら、暇つぶしのため、または自分よりも下層の人間を見つめて自己優位性を保つため、ビデオ機材を活用して地元のダメ人間の生態を記録したドキュメンタリー(通称「ミジメンタリー」)の製作に勤しみ、それ以外は歳の離れた妹/弟の子守に辟易する日々。
そんな彼女のもとに、近所に住む年下の少女ジェナ・ボイド(1993年生まれ)がアレクシス・ブレデルからタンブリン宛に送られたジーンズを持って訪ねてくる。
”自分もミジメンタリー製作に参加したい”とまとわり付くボイドをタンブリンは鬱陶しく扱うが、インタビュアーとして取材対象の心を掘り下げていくボイドの存在が、タンブリン自身の他人に対する見方を少しずつ変化させ、やがてにタンブリンが「生きること」の意味を真剣に自分自身に問う、忘れられない出来事をもたらすことになる。
”不思議なジーンズ”の履きまわしについてもどこか一歩退いて、それまで世の中を斜めに見ていた彼女が生まれて初めて、【誰か】のために奇跡が起こることを祈り(奇跡など起こらないことは彼女自身よく判っていても)、また【誰か】のために涙することを覚える。
先述のように各4人のエピソードごとに撮影方針は異なっており、アレクシス・ブレデルのエピソードにおけるエーゲ海の鮮やかな美しさと対象的にアンバー・タンブリンのエピソードでは(彼女の心象環境を表すかのように)ウォルマートの店内の無機質さが強調される。
その無機質さの中に時折挿入される星空の美しさは心に残り、タンブリンとボイドの二人のやりとりが二人芝居の舞台劇のように絶妙な間を含みながら、哀しくも爽やかな気持ちにさせてくれる。
・
・
日本での劇場公開時の評価は高かったが、キャストがほぼ日本国内では無名であること、青春映画というジャンルが冷遇されてしまっていることもあって国内では首都圏の数館で公開されたのみだが、続編『旅するジーンズと19歳の旅立ち』が公開済。
2002年12月の備忘録
【映画】
天願大介『AIKI』
(2002/日活)
天願大介『AIKI』(2002/日活)
加藤晴彦が(予想外に)良かったけれど、ともさかりえ・石橋凌という助演陣が良い。
りえ嬢は『クロエ』と同じく主人公を包み込むような”女神”役…ただし今回はバクチの女神だけど…がまさに神々しかった。
サラリーマンで合気道の師範役で報知新聞社賞受賞の石橋凌は、年輪がにじみ出ていて、これまでのヤクザや刑事の役柄よりもよっぽどハマリ役だろう。
天願大介監督の演出も、前半部は嫌味ギリギリで事故障害者のリアリティがあり、後半はあざとさに陥らず再生のドラマが爽やかに伝わってきた。チョイ役のゲストも豪華な役者が多数で、拾いもの。
1997年7月の備忘録
【映画】
チャウ・シンチー『008皇帝ミッション』(1996/香港/ツイン)
森一生『座頭市御用旅』(1972/東宝)
ラース・フォン・トリアー 『奇跡の海』(1996/デンマーク/ユーロスペース)
宮崎駿『もののけ姫』(1997/東宝)
リンゴ・ラム 『大冒険家』(1995/香港/ツイン)
アーヴィン・カーシュナー『スター・ウォーズ/帝国の逆襲 特別篇』(1997/アメリカ/FOX)
ブライアン・シンガー『パブリック・アクセス』(1993/アメリカ/アスク講談社)
ジャコ・ヴァン・ドルマル『トト・ザ・ヒーロー』(1991/ベルギー、フランス、ドイツ/フランス映画社)
マイク・リー 『ライフ・イズ・スイート』(1991/イギリス/KUZUI)
ジャコ・ヴァン・ドルマル『八日目』(1996/ベルギー、フランス/アスミック)
リチャード・マーカンド 『スター・ウォーズ/ジェダイの復讐 特別篇』(1997/アメリカ/FOX)
宮崎駿『もののけ姫』(1997、スタジオジブリ、東宝)
「人はかつて、森の神を殺した。」という、人の業の深さを覗き見る言葉ではじまり「生きろ。」というシンプルでプリミティブなメッセージで締められるこの予告編の段階で、既にこの映画が生半可なファミリーピクチャーではないことが語られる。
・
・
西の国で引き起こされた、タタリ神による“死の呪い”を解くために生まれ故郷から旅立った若者アシタカ。
そして彼が出会う、エボシ御前、ジコ坊、“もののけ姫”サンといった登場人物たちは、皆すべて「生きろ」というメッセージを体現し観る側に訴えかける。
ただし、俗世の貨幣価値も知らず、戦乱の世界で人を殺めることにも後悔を覚えるアシタカにとっての「生きる」ことと、欲望/情念/憤怒といったギラギラした感情に裏打ちされた彼らの「生きる」ことは、本質的に異なるものだ。
・
売られた娘や疫病患者といった社会の忌み者を受け入れ彼らによる国・タタラ場を築くために森を切り開くエボシ御前、[天皇のお免状]を武器にシシ神の首を求める策士家のジコ坊、そしてものののけと人のどちらにも居場所はなく、森を削る人間を恨み続けるサン。
「天地の間の全てのものを欲するが人間の業だ」
「小僧、貴様にサンの苦しみが癒せるのか」
エミシの王族としての誇りや高潔な正義感、全ての生きるものへの博愛といった[理想]が根底にあるアシタカの「生きる」ことの哲学は、彼らとの出会いによって揺らぎ、その根拠を問われることとなる。
・
しかし彼は、自らの信じる「生きる」ことのありかたを、周りに対して身を呈して訴える。
「森と人が争わずにすむ道はないのか、本当にもう止められないのか」と。
身を呈するしか、彼に方法はないのだ。『天空の城ラピュタ』(1986)のパズー、『魔女の宅急便』(1989)のキキらと同様、彼はただひたすら、信じる道に自らの全てを懸けることで自らの存在価値を証明するために生まれてきたキャラクターだから。
・
・
アシタカの奔走空しく、シシ神を筆頭とする森の獣神たちはすべて死に絶え、シシ神の力の暴走により森の生命の大部分も消滅し、タタラ場は燃え落ち、人間に対するサンのわだかまりは消えないままだ。
“死の呪い”はシシ神の最後の力により解かれたとはいえ、彼が全てをかけて求めた理想の代償としては苦い幕引きだ。
しかし彼は言う、「それでもいい」と。
理想が現実に破れたわけではない。
聖と俗、誕生と消滅、混沌と浄化、全てのあらゆる事象を自らの中に受け入れ、その中で「生きる」ことを賛歌できる若者に彼は成長した。
ただしそれも一つの通過点であり、「馬鹿にはかなわない」という最大のほめ言葉を受けて、彼はまた「生きろ」と自らに問い続けるだろう。
馬鹿の一つ覚えで、ひたすら、まっすぐに。
ただそこには、それまでの彼のように、眉間にシワを寄せて悩む[深刻さ]はない。
物事を[真剣に]捉える者だけが身につけることのできる「明るさ」がある。
リュック=ピエール・ダルデンヌ/ジャン=ピエール・ダルデンヌ『イゴールの約束』(1996/ベルギー、フランス、ルクセンブルク/ビターズ・エンド)
この映画には、キャラクターの心象風景を代弁するようなイメージカットも劇伴音楽もない。
ハンドカメラは常に登場人物につかず離れずの位置から”そこにあるもの”だけを撮し続け、マイクは”そこにある音/声”のみを拾い続ける。
見ること/聞くことのできない対象を捉えることを省き、登場人物の半径数メートルだけを切り取った日常が描かれるのが、ダルデンヌ兄弟の変わらないスタイルだ。
・
・
ベルギーの都市部にて外国人の不法滞在労働者の斡旋・受入を行うロジェと、その息子の少年イゴール。
イゴールの母親の姿は語られない。
ロジェはイゴールに対する支配力を持つと同時に、イゴールに対して精神的に依存している。
ミドルティーンのイゴールは、ロジェの指示・命令のもとで様々な不法行為に加担しているのだが、そこに良心の呵責はない。
働き場所を求める移民がそこに存在し、ビジネスとして彼等から”家賃”や”許可証費用”を徴収している。
そして時には、当局への配慮のため、彼等を誘い出して当局に引き渡すことも厭わない。
それらはすべて社会が暗黙のうちに要請している構造の中で求められる機能であり、自分たち親子はその役割を果たしているに過ぎない。
・
・
そんな生活や、凝り固まった父子関係に何の疑問も持たずに生きてきたきたイゴールだが、不法労働者アミドゥとその妻アシタ、そしてその幼い息子を受け入れ、彼等家族と接する中で、彼の中の何かが変わっていく。
親が子供を慈しむ姿、夫が妻子を気にかける姿、妻が夫の帰りを待ちわびる姿、そしてアミドゥからイゴールに託されたある「約束」が、イゴールの中での新たな価値基準を作っていく。
イゴールがその「約束」を果たすことは、自分に依存する弱い父親を切り離すこと、そして”裁き” ─社会的な裁きだけではなく、アシタという個人からの裁きを含む─ をイゴールが受けることを意味する。
そのことはイゴール自身も理解しており、彼は葛藤する。
果たしていつ、どのような形でイゴールは「約束」を果たすこととなるのか。
先述の、付かず離れずイゴールを見つめ続けるカメラの視線によって、まるで我々もイゴールの共犯者であるように、イゴールの苦悩と緊張感を共有し続ける。
・
・
「約束」のためにロジェと決別し、不法移民であるアシタとあてのない逃避行を続けるイゴール。
しかしその終わりは唐突に訪れる。
イゴールが苦悩の末、ある決断を下したその時、カメラはそれまでの付かず離れずの動きを止める。
ラストシーン、それまでイゴールとアシタに寄り添っていたカメラはその場で止まったまま、駅の通路を歩いていくふたりの後姿を見送る。
ある決断を下したイゴールを解放するかのように。
画面から二人の姿が消えて、映画が黒いエンドロールに切り替わっても、マイクは駅構内のざわめきを拾い続ける。
束縛から解放された心の中に、そのざわめきはこの映画の唯一のサウンドトラックとして流れ込み、響いていく。
それまでのイゴールの行いの意味づけやこれから先の見えない不安、その不安に立ち向かう決意等、諸々の感情を一緒くたにしながら。
グレン・サヴァン『ぼくの美しい人だから』(1987/アメリカ/雨沢 泰 訳/新潮社)
時代設定は1983年、当時のハイソな職業の代表格である広告業界の若手クリエイターのマックスと、ハンバーガーショップに勤める中年女性のノーラが出会い、ノーラが強引にマックスを自宅に誘いこんだことでふたりは恋に落ちる。
「わたしって、ほんとはもっと価値があるんじゃないかってーわたしに興味をもってくれる男がかならずどっかにいるはずだって。笑えるけど、ほんとにそう思ったのよ。そして、あんたと出会った」
そこから始まる、「愛」という呪いによる二人の苦しみの物語。
・
小説はマックスを主体とした三人称で述べられているが、主に苦しみをひきうける役割はノーラのほうだ。
社会的ヒエラルキーの底辺層で生きていること、学歴と知性がないこと、前夫/亡息子とのあいだに信頼できる家族関係をつくれなかったこと、そしてマックスとは15歳の差のある中年女であること。
なにもかも自分とはつりあわないことを感じざるを得ないマックスが自分を求めてくることが、彼女にとっては安らぎよりも苦悩を多くもたらす。
「わたしはいつでも心のなかでこんなことばっかりーノーラ、今夜こそあいつも夢から覚めるわ、今夜があいつと会う最後の夜だよ、それに、これだけ長くつきあえたんだから幸せ者じゃない。おまえの腐った人生にいい思い出ができたと考えればいいんだーなんて考えつづけてる。そこへ、あなたがあらわれるのよ」
「わたしはね、わたしにはもったいないと自惚れてる男に我慢するほど、人生暇も時間ももてあましちゃいないわ」
家族を失ってからひとりで生きてきたノーラのプライドと孤独が、マックスの愛を受け入れることを拒む。
・
一方のマックスが、自分とは釣り合わない、住む世界が異なる、なによりも自分がノーラのようなだらしのない女性を嫌悪しているにも関わらずノーラを求めてしまう理由は、本人の口から語られず、おそらく本人にもよくわからない。
ただ、マックスが交通事故により失った前妻のジェイニーが“誰もが羨むような女性”であったことが逆にマックスの情熱を失わせたこと、“小男”であるマックスが大柄で野蛮なノーラとのセックスで興奮すること、ノーラのだらしなさが自分の母親に共通すること ─母親のだらしなさを子どもの頃からマックスは忌み嫌い矯正しようとしたがそれは叶わず、ノーラであれば矯正が可能ではないか、とマックスが思っていること。
これらが物語の中で描写され、ジェイニーの死でいったん制御できなくなった自分の人生を自身の手でコントロールすることを望んでいることが描写される。
住む世界の違うノーラとの恋を成就させることが、自身の人生にとってのリハビリであるかのように。
・
互いの住む世界が違うことを互いに認めあっている二人は、幾度となく酒とセックスに溺れる。
その間だけは、苦しみも嫌悪も忘れることができるから。
しかし、それは一時の逃避にしか過ぎないことは明らかだ。
・
世代や環境の違いはあれど、二人はもう大人だ。
大人のふたりが恋をする理由は、「自分の人生はこんなはずではない」という、置かれた現状からの脱出のためだ。
目の前に現れた相手に期待することは、「今の状況から自分を連れ出してくれること」だ。
それが現実になるためには、二人の少なくともどちらかが変わらなければならなかった。
・
マックスがノーラを愛している(どんな理由にせよ)にも関わらず、ノーラを自分の世界に引き入れることをためらうこと、そしてノーラ自身も自分を守るためにそれを望まないことが幾度となく二人をいがみ合わせる。
しかしある日、マックスは友人宅でのパーティにノーラを同席させ、ノーラは彼女自身の度胸とプライドで、成功ではないにせよ自身のちいさな居場所をマックスの世界の中に作る。
だがそれもつかの間、ノーラは置き手紙を残してマックスから去る。
・
「行く先をでっちあげたり、別れる理由を適当にいいつくろうこともできるけど、わたしはもうあなたに嘘を並べる気はありません。ですから、あとは何もいわないようにします。あなたもそれをよかったと思う日がきっと将来来るでしょう。わたしはあなたの人生に居場所がなかったし、あのままでいたら、あなたの人生をめちゃくちゃにするだけでした。
わたしがあなたを愛していないとは思わないで。いまも愛しています。いつまでも、死ぬまで愛してます。わたしを憎まないで。」
・
ノーラを失ったマックスは、クライアントのテレビCMの女優をノーラそっくりにする演出を行い、意見の対立したクライアントと職を失う。
このあたりのくだりはマックスにとっての「呪い」の描写だ。
去った者への愛が残された者を狂わせ、人生を変えていく。
そして、呪いを解くには、現実を変えるためには、何かを捨てる必要があった。
・
ニューヨークに渡ったノーラは高卒の資格をとるために勉強し、レストランを経営する恋人のもとで新たな生き方を見つけようとする。
ノーラを追ってやってきたマックスはダウンタウンに移り住み、足を棒にしてコピーライターの仕事を探す。
自由の街ニューヨークで、それまでの自分のいた世界を捨てて、生きることをやり直すことに決めたふたり。
呪いと苦しみを受けてきたふたりは、多くの読者が望むかたちで小説を終わらせる。
・
小説ではない現実の物語では、恋に落ちた男女の多くは捨てることのできない世界と呪いを背負ったまま生きていく。
その状態で呪われ続けるか、呪いを捨てるために恋を捨てるか、あるいは自分の世界を背負ったまま相手の世界を背負う努力をするのか。
最善の答えが見つからないまま、恋を続けるひともいる。
呪われ続け地獄の炎で焼かれる想いをしても「ふたりでいれるならきっと地獄も楽しい」と想いながら。
・
小説の原題でありノーラがマックスと出会う彼女の職場である“WHITE PALACE”は、実際にアメリカに存在するハンバーガーチェーンであるらしい。
もちろんそのままでは日本では意味が通じないため、翻訳を手がけた雨宮 泰 氏がこの印象的な邦題をつけたようだ。
その由来は、小説内でもマックスがノーラに薦める小説を苦慮する中で登場するロバート・ショーの『ピグマリオン』が原案となった『マイ・フェア・レディ』にあると思われる。
・
映画の公開に併せて文庫版の装丁も一時変わったが、オリジナルの装丁はロバート・ブルーのイラストを用いている。
日本国内では、中山美穂のアルバム『MIND GAME』(1988)のジャケットを手がけたことで一部に有名なイラストレーターであり、パトリック・ナーゲルと同様の“肌を白く描き皺を描かない”という80年代のイラストレーターのひとりである。










