ポール・トーマス・アンダーソン『ファントム・スレッド』(2017、アメリカ、ビターズ・エンド/パルコ)

流麗なカットと音楽に載せて描かれる、ダニエル・デイ=ルイス演じるドレスデザイナーの淡々とした日常と仕事ぶり。

そこにはどこか不穏さがあり、そして美しく、画面をずっと見つめていた。

ヴィッキー・クリープス演じる田舎のレストランのウェイトレスに、それまでの描写にはなかった情熱的な視線を注ぐデイ=ルイス。

彼は「夕食をいっしょに」と彼女に声をかける。

一目惚れの恋に落ちた? そうでもあり、そうではない。

彼は自分のドレスづくりに没頭できる“理想的なマネキン”を見つけたのだ。

そんなのデイ=ルイスの思惑に戸惑いながらも、彼のミューズとして彼の心を得ようとするヴィッキー。

当然ながら、そんな歪んだ関係は、互いの思うように進むわけはなく。


不器用に愛を得ようとするヴィッキーの行為がダニエルの怒りを生み、ふたりが声を荒げて衝突する場面に、観ていて居た堪れない気持ちになった。

相手への(自分の一方的な)期待が裏切られることによって、それまで蓄積されていた互いへの不満が辛辣な言葉になって相手を叩きのめそうとする様子、それは、私と家人が過去に繰り返してきたこととそっくりだったから。

愛や関心を向けられないことに怒りを覚える女と、自分の世界を突き詰めることに注力して女が考える愛情問題などは問題とも思わない男。

それはきっと数多くの男女の間で昔から繰り返されてきた世間一般の普遍的なことなのだろう。

そう考えると、私も年月を重ねて世間相応の人生を送っているのだな、と思いながら観ていた。

ただ映画とは違って、私はドレスデザイナーでなければ、家人はミューズでもない。

わたしたちはただの中年の男女で、この映画のような、諍いのあとに起こるドラマチックな展開も共依存的な愛情関係も存在していないことも判っている。

(2018.06)

YUKI『2人のストーリー』(2010.09.15)

2017年(第90回)の米アカデミー賞は、『シェイプ・オブ・ザ・ウォーター』と『スリー・ビルボード』が作品賞を争った。

受賞したのは、冒頭からラストシーンまでの、脚本/音楽/美術等の全ての要素が全て計算し尽くされた交響曲のような『シェイプ・オブ・ザ・ウォーター』だった。

それに対して『スリー・ビルボード』は、フリージャズのように先が全く予測できない意外性と緊張感が最後まで続き、それだけに“あの”ラストシーンがもたらす安堵感は余韻を残すものだった。

全く別の言い方をすると、『シェイプ・オブ・ウォーター』は、現実世界に見切りをつけた上でのハッピーエンドを描く“おとぎ話”で、『スリー・ビルボード』はバッドエンドを匂わせながらも現実世界の過酷さの中に確かに存在している希望や温もりを最後のシーンで掬い上げた“ドキュメンタリー”という、切り口の違う映画としてそれぞれの価値があったと思える。


自分自身のこれまでの人生/半生における出来事や題材の中から一本の映画を作るとしたら、それはどんなジャンルであり、またどんなラストシーンで締めくくられるだろうか。

物語のジャンルは「青春もの」「立身出世もの」「恋愛もの」と様々なものがあると思うけれど、どのジャンルであっても、自分の物語をバッドエンドで終わらせる人はいないと思う。

哀しい出来事があった物語であっても、それまでの課程の中でいちばん輝いた瞬間をラストシーンとして、その後の哀しい事実はエピローグとしてそっと触れる程度に留めるのではないだろうか。

あるいは、哀しい出来事を描写しながらも未来への希望を託すような終わらせかたを行ったり、その映画の“続編”の存在をほのめかすような締めくくりをするのではないだろうか。

そんなやりとりを、『スリー・ビルボード』を観た古い友達とSNS上でやりとりした。

友達はいろいろあって、自身の物語の続きを紡げるだけのエネルギーを失ったままだ。

私も友人も、最後のページは開かれるどころか、まだ書かれてもいない。



角の犬に吠えられて 銭湯の湯は熱すぎて家

浮気をしては仲直り そしてそれはひどい間違いだった

暮らし始めたら 何かが変わるような気がした

君の古着のスカートをたくし上げたら

愛を じれったいような愛を 渡しあった夜は薔薇色

物語は続く2人の思い通り

最後のページ 開かれないストーリー

ただ君を想い 幸せを願い 暮れゆく黄昏の中にいた

生きてる それだけが 代わりのないストーリー

いつまでも君の横顔を見ていた

(2018.05)

マーティン・マクドナー『スリー・ビルボード』(2017、アメリカ・イギリス、20世紀フォックス映画)



「すごいものを観た」という感覚が鑑賞直後からずっと心に残っている。

映画を観た、というには映画らしくなかった。

もちろん文法的にはちゃんとした映画なのだけど、映画の[ジャンル分け]とか[登場人物のステロタイプ化]とかの、映画を分かり易くする[紋切り]が廃されていて、映画を観たというよりは【ひとが生きる】【ひとと生きる】ことの不条理さと尊さを感じ続けた2時間だった。

印象に強く残るシーンはいくつもある。


[F.マクドーマンドとW.ハレルソンとの関係描写]

最初に描かれる、マクドーマンドの自宅のブランコに座ってのやりとり。

二人の表情や空気から感じ取れるのは、“ベテラン先生と生意気な生徒”、あるいは互いを“同志”として認めているような雰囲気は恐らく、マクドーマンドの娘が殺害され、捜査の上でふたりがやりとりする中で培われたものだ。

続いて警察所内での尋問シーン。
自分を脅迫した歯医者をゴアなやり口で返り討ちにしたマクドーマンドも、ハレルソンの吐血には動揺している。

そしてハレルソンの自死後、彼が生前にマクドーマンドに宛てた手紙において明かされる、彼女へのメッセージ。

これらのシーンはいずれも、二人が対立する間柄ではなく信頼関係で結ばれていたことを感じさせる。

マクドーマンドが広告を出した理由は、ハレルソンの中で燻ったままの炎を彼の生きている間に完全燃焼させるためでもあったはず。

しかし二人のそんな信頼関係を、町の人間もハレルソンの妻も知ることはない。


[マクドーマンドとその家族の会合]

マクドーマンドが出した看板の存在を知り、別れた夫(J.ホークス)が自宅に訪れ、息子(L.ヘッジズ)とともに、期せずに家族の再会となる。

夫婦が離婚した原因には彼のDVもあり、互いの言動に一触即発となる状態となるが、ひっくり返ったテーブルを親子がいっしょに片づける。

また、元夫婦のふたりは娘を失った哀しみでは手を取り合いつつも、その次の瞬間には互いを非難する言葉を浴びせる。

“憎しみ”と“共感”が同時に存在する、家族/夫婦という関係性のやっかいさの描写がとてもリアルだった。


[病室でのS.ロックウェル]

マクドーマンドによる警察署への放火に巻き込まれた重傷のロックウェルが入院した相部屋には、自分が腹いせにボコボコにしたC.L.ジョーンズがいた。

火事の直前に読んだハレルソンからの手紙により改心したロックウェルは「すまなかった」と涙を流す。

憤りが消えないジョーンズは怒りに震えながらもオレンジジュースを差し出す。

文字通り“火”に焼かれることで罪を償い、涙とオレンジジュースという“水”により清められ生まれ変わったロックウェルがその後にとった行動の価値については言うまでもない。


[マクドーマンドとロックウェルの車中シーン]

一連の出来事に決着をつけるためにアイダホに向かうことにする二人。

それぞれの家族に別れを告げ、銃を手に車を走らせる。

車内での静かな二人の会話が示す、それぞれの気持ちの変化を描写した直後に、画面は暗転しエンドロールとなり、その場面がラストシーンであったことを告げられる。

“え、ここで終わり?”という驚きとともに涙が溢れた。

このシーンで泣いた、というよりも、このシーンをラストシーンとした監督のやさしさに泣いた。

このあとの二人はどうなるのだろう。

アイダホに向かうにしても引き返したにしても、それぞれが背負った苦しみは無くなることはないだろう。

しかし苦しみと生きていく中でも、希望を抱いたり憎しみが和らぐ瞬間はきっとある。

その瞬間を忘れずに抱き続けることでひとは生きていける。

ハレルソンが生前に妻に宛てた手紙にあった「苦しみが思い出になるよりも、美しい思い出を最後に残したい」という言葉のように。

(2018.02)

“La ville au calme crepusculaire,le pays des cerisiers” de KOUNO Fumiyo(2005.09)

原爆投下から60年が経過した8月6日の夕暮れ。

広島市民球場の目の前、原爆ド−ムの周辺には様々な年齢/国籍の人間が行きかい、太田川には無数の灯篭がゆっくりと漂っていた。

川辺にて灯篭を眺めていたところ、外国人女性から英語で話しかけられた。

「広島での平和教育について、フランス語で話せますか?」
確かそんな内容だったと思う。

「英語ならまだしもフランス語ですか?しかも平和教育?それはちょっと無理です。」

…なんてコミュニケーションが片言英語でも出来るならまだしも、日本人特有のあいまいな微笑みを浮かべていたところ”sorry”と言って彼女は去っていった。

おそらくフランス人のツアーコンダクターだったのかもしれない。

毎年8月6日、広島市民は”ヒロシマ市民”として、たとえ生粋の地元の人間でなかろうと被爆体験がなかろうと、世界と向き合うことを少しだけ余儀なくされる。

そしてそれから1ヶ月余りが過ぎ、フランス・パリのほぼ中央部に位置するパリ市庁舎に私はいた。

パリ市庁舎は、ノートルダム寺院で有名なセーヌ側の中洲・シテ島から中州にかかる橋を渡ったすぐの場所に位置し、市庁舎の建物自体も17世紀初頭の新ルネッサンス様式の歴史的/芸術的建築物として観光名所となっている。

そこは「60年後のヒロシマ展」が開催されていた。


看板はあるけれど建物のどこからが展示会場の入口なのか判りづらく少しうろうろする。

その中のひとつの入口に立っていたアフリカ系の警備員の方に”Hiroshima,entre,OK?”と適当コミュニケーションを試み、特にダメ出しが出なかったので小さなドアから建物の中庭へ。

金属探知機により持ち物検査(公共施設で行なわれる催事なのでそんなものだろう)を受けて建物の中に入ると、そこはもう「ヒロシマ展」の展示会場だった。

パーテーションがされた最初のコーナーは日本の小中学生が描いた”反核・平和”をテーマとしたポスターの展示。

各ポスターには、詳細ではないが簡単なフランス語のキャプションが付けられている。さらに奥のほうに進むと3メートル四方ほどの台座があり、中央には巨大な金属製の「折り鶴」のオブジェが位置し、その周囲には実際の折り鶴が無数に置かれている。

その台座のすぐ横の壁に、裸足で歩く皆実の姿が。

『夕凪の街 桜の国』単行本表紙の複製/拡大展示であり、その手前には折り鶴が置かれている。


皆実の絵のある壁/折り鶴の台座を挟むかたちで向かい会う壁には、中沢先生の『はだしのゲン』の紹介パネルがあった(こちらは一部原画もあった。)。

『はだしのゲン』と並んで、『夕凪の街 桜の国』が日本を代表する原爆漫画(という表現の好き嫌い/良し悪しは別として)として世界に向けて紹介されるようになったことに改めて感慨深いものがある。

その傍には、実際に折り鶴を折って台座の上に手向けるためのコーナーがあった。

フランス人の職員さんが一生懸命折りかたを教えているのだけど、さすがに手つきはおぼつかない(…人のことは言えないけれど)。

以前の情報では「『夕凪〜』の”原画展”」であるという情報もあったが、実際には前述の皆実のイラストを含め、『夕凪の街』と『桜の国』をダイジェストで紹介したパネル(各作品3枚ずつくらい)の展示。

フランス語によるあらすじ(だと思う)が紹介されていたが、わが語力では読解は無理。


折り鶴や皆実のいるフロアから階段で違うフロアに上がると、そこは現在の核兵器に関する状況のパネル、そしてヒロシマ・ナガサキの惨状を示す写真、目撃者のスケッチ、焼け焦げた当時の生活用品等の展示があった(恐らくは日本の資料館の展示物を一部空輸したものと思われる)。

死体写真やケロイド写真が与えるショックはともかくとして、それ以上に印象に残ったのは、「生き残ってしまった人たち」が自ら描いた、投下直後の自分たちの姿だった。

身内の死体を背中に背負い、死体の焼き場を探す女性(しかし街は全て焼き付くされ、燃えるものは何も残っていない)。

硬直した息子の死体を荷台にくくりつけた自転車を運転する父親。

月並みな言葉だけれど”無念”とはこういうことだ。

愛する者の命だけでなく、生き残った人の気力さえ奪っていった戦争の現実がそこにあった。

展示のフロアは以上の2つで終わり。

平日の昼前に訪問したが、人影はまらであり、果たしてこの展示会が成功であったのかどうか?は判断できない。

しかしこの展示をきっかけに、ヒロシマやナガサキに始めて関心を持った人間がいつか広島を訪れるかもしれない。

その時にフランス語で平和教育の話はできなくても、せめて原爆ドームや平和公園への道案内くらいはできますように。

市庁舎の外に出ると、秋晴れのパリの青空の下は何もかも美しかった。

パリの街並みは先の大戦の空襲で破壊された後も、平和と美を愛する人々の手により再現されたという。

しかし、次にひとたび大国間の戦争が起こったときには、復元するだけの労力も材料も、そして「パリがいかに美しかったか」を称え伝える人すらも誰一人いなくなるのだろう。

こうの史代『夕凪の街 桜の国』(2004/双葉社)(2005.01)

各所での評判を確認するために購入。

本屋の駐車場の車の中で読み始め、『夕凪の街』の風呂屋でのモノローグシーンで嗚咽がとまらず、『桜の国(2)』の桜咲く橋の絵とモノローグで滂沱した。

いまから十数年前に、自己発展の場として広島の地を選び、出身県の訛りよりも広島弁がスタンダードとなり、おそらくこの地で家族そして墓をつくることを感じはじめている今の自分。

でもそれらは全てひょっとしたら、このマンガに出会うための必然だったのではないか − そんなことすら感じてしまう。

『夕凪の街』でそっと語られた誰もが知る悲劇が、『桜の国』においてふとした望みを見せてそっと締めくくられる。

しかし、救い/希望はあっても、また終わりはない。

なぜなら、

「十年経ったけど
 原爆を落とした人はわたしを見て
 『やった! またひとり殺せた』
 とちゃんと思うてくれとる?」

という問いかけに対する答えを、まだ皆実は聞いていないのだ。

そしてこれからも、”これだ”というひとつの答えは出ないだろう。

答えを出すのは特定の誰かではなく、【戦前】であり【戦中】である現在(現代は【戦後】ではない。軍隊が越境し、そして世界に核が存在する以上、【戦前】であり【戦中】なのだ)を生きる、私たちすべての”生きのこってしまったもの”一人ひとりの使命だから。

でも、私はできるものなら答えを聞きたい。

60年前のあの日に原爆を落とした人の口から、「知らなかったんだ」「そんなことになるとは思わなかったんだ」という、子供の戸惑いのような答えを聞きたい。

全ての結果が計算された上であの爆弾が落とされたということを認めたくない私は、ごくわずかな人間がその数万倍の数の人間の生殺与奪を握っていた(そして今も握っている)ということを認めたくない私は、きっと甘ちゃんなんだろう。



100ページ足らずの薄さのこの本を書店で手にとったときは、”期待はずれだったらどうしよう?” ”中古市場での買値は今いくらくらいか?”なんて考えた。

そしてそんなことは無意味だったけれど、”ソフトの値段とはどうやって判断するのもなのか”ということを改めて考えた。

例えば「映画代」というものがある。

定価の1800円で見るということは自分にとっては有り得ず、割引チケット等を駆使して平均するとちょうど800円くらいでいつも見ている。

しかし、一時停止も巻き戻しも効かず、リアルタイムの体験の後は自分の記憶の中で反芻するしかない映画代の800円と、なんども読み返し噛みしめながら味わうことのできるこの本の800円とは質が違うことに気づく。

自分はきっと、これから死ぬまでの/そしてその後の世代に伝えるための”哲学”を800円で手に入れたのかもしれない。

公園の木々、ロックンロールピアノ(2010.05)

家人の体調がここのところ悪く、連休の5日間は初日からずっと主夫モード。
外出は公園、スーパー、ドラッグストア、義父母宅、と居住する町内からも出ておらず。
たとえ体調が良くてもあまり変ってなかったと思う。
息子を連れて人ごみに出かけていけるほどの度量はまだ出来ていない。
今日が連休の最終日。


息子がここのところ、公園でよく遊ぶようになってきた。
と言ってもすべり台と昇り鉄段/渡り網等の複合遊具を、ひたすら登って降りて…の繰り返しばかりだけど。
他の小さな子がいても視線を合わすことはないが、それらの子たちがいないタイミングを見計らって遊ぶような本人なりの”調整力”はついてきた。

ひたすら動き回って本人の電池が切れるまで自由に遊ばせて連れて帰る、のパターン。
この連休は天候に恵まれ日差しも初夏のそれに近くなってきて、夢中で外遊びする息子の熱中症対策等も気になってくる。
しかしふと公園全体を改めて視てみると、ジャングルジムやすべり台等の複数の遊具を日中の時間帯の高い日差しからカバーするように、大木が木陰を作っている。
そうなるように木々が公園内に配置されている。
走り回るグラウンド以外には、ほどよい感じに木陰があり、新緑とまぶしい日差しと青空のコントラストが気持ちいい。
フォト
あたり前のことかも知れないが、単に”広い土地に砂場と遊具を置きました”だけでは子どもが思い切り遊べる公園は機能しない。
同じように、”ハコを作りました”では人は集まらないし、”システムを作りました”でもそれを知らせなければ意味はない。


息子は家にいる時はとにかく、テレビ(録画した『ピタゴラスイッチ』『にほんごであそぼ』etc)ばかり。
家事をしたり体調が悪かったり、大人が相手をする時間がとれないのが一番の問題なのだけど、何とかテレビの時間を減らしたい。
そのための公園遊びでもあるのだけど、CDをかけてみた。
YUKIのアルバム『うれしくって抱き合うよ』(家人の趣味)。
息子は園での室内遊びでもみんなの輪の中には入らないけど、先生が弾くピアノは好きらしい。シングル曲の『COSMIC BOX』が、ロックンロールなピアノがフィーチュアされていて好きになってくれるかな、と期待。

その曲ばかりでなく、しばらくはアルバム全体も聴いてくれていた。

息子の横でピアノ弾きたい。電子ピアノなら納戸にある。引越しの際に売り払うつもりだったけど当時月9で『のだめカンタービレ』をやっていてやはり音楽は大事だと思って持ってきた。
それでも段ボールに埋もれてしまってて段ボールの品々をなんとかしないと引っ張り出すのは無理だけど。
そしてもちろん、練習しなければ無理だけど。
最後にこのピアノに触ったのがもう、8年前の結婚式のときだから。
HANONからやらなければ。
ロックンロールなピアノも弾けるようになりたい。

終盤のピアノが気持ちいい、BAZRA『オレンジ』

週末の僕ら (2010.04)

【土曜日】

僕が会社休みの時には、双方の気分転換のため、なるべく家人には外出してもらっている。
家人は洗濯をすませ、街に出かけた。

午前8時半、起きてきた息子の熱を測って、着替えさせて、納豆ご飯を食べさせる。
ご飯は以前は自分でスプーンを使ってなんとか食べれていたのが、昨年11月に高熱が続いた時以来、それもやらなくなってしまった。
食後こちらが台所の片付けをしている間に息子はウンチ。
おむつを替えて、またテレビに相手をしてもらっている間に寝室の掃除をして、昼ご飯の下準備に野菜を刻む。
天気が良くて暖かければいつもの公園に、と思ったけど曇りなので外出は無し。
かわりに、寝室の布団の山を登ったりゴロゴロしたりで、多少は運動不足になったかなぁ…と気休め程度には思う。

お昼はチャーハン。
休みの日のお昼は、炒め系の飯ものか麺ものを作って食べさせる。
根が貧乏性で味付けがチマチマしているので何を作ってもパンチ不足の”やさしい味”になってしまうけど、パクパク食べてくれるのはありがたい。
少なくとも、父ちゃんが時々ご飯を作って食べさせてくれたということは本人の記憶に留めておいて欲しい。 
昼のあとはまたウンチ。 
しばらくはテレビをつけつつも、昼寝させるために”はい、ネムネム、テレビはおしまい”とコードを抜いて手の届かないラックの後ろに隠す。
息子、テレビの前で憤慨してこちらに泣きついてテレビの前でハブテ寝して、そのまま眠りに付く。
今日は割りとスムーズだった。ブランケットをかけてあげて、しばらく一緒に眠る。

ひとりで起きて、眠る息子の横でPC。
youtubeやニコ動でひさしぶりにBAZRAに聴き入る。
納戸の段ボールにしまいこんだCDをひっぱり出したくなる。
本当にもっと評価されてもっと活動して欲しいのに全くその気配はない。
サンボマスターがブレイクしたのなら彼らがブレイクしてもいいじゃないか。
少なくともブサンボほど自意識過剰じゃないし押し付けがましくもないぞ。

夕方5時。
たけのことじゃがいもを切って煮る。
夜寝なくなるのも困るのでいいかげん息子を起こすために、テレビをつけて『クインテット』を流す。
むっくり起きた本人の機嫌が悪くなる前にバナナをあげる。

6時すぎにでっかいウンチ。
晩御飯の支度。
息子には昼のチャーハンの残りと前の日のおかずの焼き魚。
病院でもらったかぜ薬はバニラアイスにまぶして毎食後服用させる。 
家人が帰ってきて、息子にはピタゴラ装置のDVDを観てもらいながら、大人の晩御飯。
たけのこの煮物は相変わらず”やさしい味”。

台所を片付けて、家人は先に風呂に入り、その間は寝転がった息子の足をこちらの足の上に乗せて読書。
キングの『呪われた町』の再読も佳境に入った。
昔読んだときはそれほど面白くなかったのに今すんごく面白く読める。
吸血鬼の親玉・ストレイカーと対峙するキャラハン神父が、信仰心の揺らぎを突かれてあえなく滅ぼされる件は、そこに至るまでのキャラハン神父の心理的な葛藤と再生が第二次大戦以降/科学絶対主義社会における宗教の社会的位置づけと絡まり知的かつ生活感深く描かれて、読んでいてゾクゾクした。
キリスト教と悪の関係の描き方が類似するジョン・プアマンの『エクソシスト2』を再観したくなった。

【日曜日】

朝6時に起きてこの文章を途中まで書く。
息子は朝8時に起きてきた。
着替え、ごはん、台所の片付け、近所のスーパーに買い物、昼ご飯の準備と主夫モード。

今日の天気は、空気は少し冷たいけど雲ひとつない蒼穹。
昼前に息子を公園に連れ出す。長らく外に出ていないからどうかなぁと思ったけど外出用のパーカーを見せると素直に理解して自分で玄関の明かりのスイッチを付けて上がりかまちに腰を下ろして靴を履かせてもらうのを待ってくれている。 
手をつないでエレベーターに乗って、光まぶしい街路に出発。
公園は玄関ドアから2、3分程度の距離だけど、息子が自分の足で歩いて行くようになったのはこの2ヶ月くらいのことだ。
身体機能が未成熟なためときどきリズム/バランスが悪くなるけれど、嬉しそうに手をつないでとことこ歩いていく。

公園では既に数人の子どもたちが思い思いに遊んでいる。
公園に連れていく時間はいつもなら、子どもが少なくなる正午少し前なのだけど、今日はそれよりも早い時間に連れてきた。
もし息子が気後れして家に戻るようであればそれもしょうがないと思ったけれど、息子は入口で少し考えたあと、公園の中に足を踏み入れていった。

すべり台の黄色い鉄段を昇り、網の上を渡ってらせん階段を下りて丸太の間を歩き、別のすべり台へ。
このいつものパターンを守ることが息子にとっての”公園でのルール”。
今日の公園には少なくない子どもたちが遊んではいたけれど、うまいぐあいにこのパターンのルートには他に誰もおらず、息子もスムーズに遊びに入っていけることができた。

公園の砂場では、近所に住むお友達(であってほしいけど、息子には”友達”の概念がない)のKちゃんとそのお母さんが居た。
Kちゃんは息子が好きで、近くによってきてくれるのだけど息子は目も合わさずマイペースなまま。
とは言ってもKちゃんのこともそのママのことも存在自体は認識していて、何となく嬉しそうな表情も見せてくれる。
しかし、息子とこうちゃんの距離がだんだんと近くなって、互いの親が写真でも撮ろうか、としていた矢先のこと、息子の前に周り込んで座ったこうちゃんに、息子がいきなり手を伸ばしてこうちゃんの髪の毛をつかみ、頬を爪で引っかいた。

Kちゃんの白い頬に血がにじんでいる。
痛みよりもショックで、Kちゃんの笑顔が消え視線が曇った。
息子はKちゃんから離れて、公園のフェンスそばに一人たたずんでいる。 
息子の特性に関連して最も気がかりだったこと、”他者との良好な関係維持の難しさ”を目の当たりにしてしまった。
息子はフェンスの向こうを無言で見つめている。
本人がKちゃんの存在を意識していたからこそやってしまった事には違いない。
でもなぜそんなことをしたのかは、本人にさえ判らないことかもしれない。
こちらもこんなとき、どんな態度を息子にとれば良いのか判らない。
叱るべきなのか、Kちゃんと同じく動揺している気持ちに黙って寄り添うべきなのか。

その後ブランコで遊ぶKちゃんのところに息子を連れて行って”ごめんね”と一緒に謝る。
…いっしょに、という表現は妥当ではない。
息子の心はどこにあるのか判らなかったから。
ふらふらと公園の出口に向かう息子。
当て所も無い様子で歩いていこうとする息子を抱っこして、家に帰ることにした。
普段なら抱っこされる時点で嫌がる息子なのに、黙って大人しくしていた。
やはり本人も何かショックだったようだ。

家に帰り、不透明な感じの息子を横目に昼ご飯を作る。
今日は高菜チャーハン。ピリカラの高菜のおかげで、いつもの”やさしい味”も多少はメリハリがついた味に。
ご飯はいつものようにはぐはぐ食べる息子にとりあえず安心。

息子の心理面が少し気になりつつも、息子を家人に預けて109シネマズ出かける。1ヶ月ぶりの映画館。
目当ては公開前から期待していた『第9地区』。
観れてよかった!P.ヴァーホーベンの黒いユーモアと深作欣二の俊敏性を兼ね備えた娯楽傑作。
主人公二人がボロボロになりながら”最後の希望”に向かって抗う場面は泣きながら観た。

映画後は隣接するアカチャンホンポで息子の消耗品を購入。
片手におむつの段ボール、片手にジュースのペットボトル複数を下げ、えっちらおっちら車に乗り込む。
休日の商業施設は人大杉でそれだけで疲れる。既に眠い。

帰って息子ご飯、大人の晩御飯、片付け、しばしの休憩、お風呂。
息子は夜になるとテンションが上がり、(両親が自分のそばに揃って嬉しいのか)寝る前にいちばん笑顔で元気になるパターンなので、こちらの疲れ曲線とアンマッチになること多し。
でもこれまでも夜泣きはしないのでそれはいいか。

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僕らの休日はほぼこんな感じ。
うまくいくことばかりではないけど、息子といっしょの時間を多少なりとも心安らかに過ごすという目的は果たせている。

課題は、もっと息子の遊びの幅が広がってくれれば、ということ。
公園で体を使って遊ぶ以外にも、おもちゃを使って部屋遊びしてくれないかな…部屋中ではもっぱらテレビ(お気に入り番組の録画のリピート)ばっかりなので。
”絵本を読むかわりにテレビを見ている”と思えば良いのか。
(たぶん良くない)

息子、入園、通園。(2010/04)

今日は雨の日曜日。

家人は外出、息子に昼食のカレーを食べさせてひと段落。
余裕もできたので、先日の入園式のことを書きます。

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息子が通う区の療育センターは、昨年夏に息子を診断してもらって以来半年間、週に1度 療育教室に通っていた(皆勤じゃなくて休みが多かったけど)出来てからまだ7年くらいの県内でも新しい施設。
我が家の10年選手のスカイブルーのFIATも、息子にとってはもう[お馴染み]の存在。
車に近づくと手でつん、と車体を触り、後部座席のチャイルドシートに乗り込む準備をする。

車で約20分の道程も、息子にとってはもう馴染みのついてきた風景だと思うけど、これからは毎日の道程になる。
最初の1年は母子通園で、次からはひとりで送迎バスによる通園となる。
バス停からひとりでバスに乗って…という姿はまだとても想像できない。
でも、今日のように施設に通園して知らない子どもたちと一緒に過ごすことになること事態、半年前は想像できなかったこと。

センターに到着して、車から降りて自分の足で自動ドアをくぐる。ここまでは[いつも通り]でOK。
そしていつもならエレベーターで2階に上がるはずなのに、今日(から)は1階で受け付けがあり、クラス分けに従って1階の各教室へまず移動。この時点で息子にとってはアウト。
”いつもとちがーう!”とぐずって動かなくなり、なだめすかして抱っこで教室へ。

センターの園児構成は、通常の保育園と同様、年長・年中・年少となり、大きな子どもは【らいおん】【ぞう】といったそれなりの動物名のクラス名に。
さらに分けると同じような症状/障害、体型でクラス分類され、息子は年少のクラス分けで【りす】【うさぎ】そしてもうひとつの【あひる】ぐみに。
親子でよちよち進んでいく、というイメージ。ふふ。

【あひる】は息子と同体格くらいの子どもたち7名の集まり。
同じ自閉症といってもクラスの中はアクティブな子が多くて、当然のごとくどの子も落ち着かず、ぐずったり泣いたり騒がしい。
その中で息子はひたすら「忍」の一文字で、冷静になろうと頑張っていた。
けど自分の領域(テリトリー)に入ってきた子の髪の毛をむんず、と掴んでまず一泣かせ。
…これからもこういうことが数多く起こるんだよね。

クラス内で簡単な説明があった後、ホールにて入園式。
施設の全職員、来賓、保護者、そして在園生を含む子どもたち、合せて300人くらい?がホールに。
当然のことながら落ち着かない子ども続出、阿鼻叫喚のホール内。
先生たちのメッセージなんてまともに聞こえやしねぇ。

息子といえば、ぐずったり逃げることもできないと観念してか、喧騒の中で必死に頑張っていた。
…彼の場合の”頑張る”というのは親の膝の上に体を預けて身を硬くすること、なんだけど、その姿にパパもママも”頑張ったね、えらいね”と感激。
ギャーギャー叫んで逃げ出したい気持ちもあったろうに、自分を何とかコントロールすることを学んでいるみたいで、それだけでも良かったと思う。
園に通う子どもたちは息子のように見た目は普通の子もいればダウン症の子らや肢体不自由のために電動カートに乗った子どもたち、モルキオ症候群の子など様々。
その子どもたちに共通するのは、”頑張る”ということの意味を切実に教えてくれる子ら、ということ。

この園で息子に身につけてほしいことは、何にでも頑張ることで違うことが感じられること、違うものが見えてくる、ということ。
頑張ることが自分の成果や期待する結果に結びつくとは限らないけど、まず頑張ることで自分を認めて、勇気を持てるようになれば、と願う。

式のあとは再び教室に戻り、保護者(母親)に対する生活説明。
その間は子どもの数に充分な知育おもちゃでそれぞれ遊ぶのだけど、息子が遊んでいるおもちゃを横から取る子もいたり、やはり落ち着かないのは同じ。
しばらくは我慢していたものの、途中から外に出たがったのでいっしょに園庭のすべり台で鉄段を昇り降り。 
年中か年長くらいの、背の高いきれいな顔立ちの女の子がおなじすべり台で遊んでいた。
でも足元は裸足で、ああやはりここはそういうところだよな、と再認識。
教室内での先生の話も終わるころなので、そろそろ中に戻らないと…と思っても、息子は昇り降りをなかなか止めそうにない。 

公園で遊ぶときであれば好きなだけやらせてあげることも出来るけど、これからは”やっていいこと/もうやめなきゃいけないこと”についてもしっかり理解してもらわなければいけない。
いちばん根気のいることだし、理解力に乏しい息子にとってもつらいことではあるだろうけど。

本日の予定は午前中で終わり、通園用の通用門を通って駐車場の車に乗り込んだところで息子、緊張の糸が切れて”わーん!!”と大泣き。
でも、今日どれだけ彼が頑張ってくれたか判っているから、その泣き顔もとても愛おしい。

家に帰り、息子を着替えさせて、会社に向かい家を出る。 
事務所に行く前に、頑張った息子…と自分に向けて、”つばめ”で祝杯。

江口寿史もベタ褒めのつばめ。 自分以外にも結構、昼間からビールを飲んでるビジネスマンは居りましたよ。

ほどよいほろ酔い気分で、桜を見ながら平和大通りを歩いて事務所へと向かいました。

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入園式が木曜日で、本格通園開始が金曜日、その後の土日はお休み。
母子ともに慣れない生活の開始を考慮した日程の組み方だと思うけど、すでに一日目で母子共々クタクタの様子だった。

生活の基本的な流れは、朝9時半登園~集団あそび~給食~お着替え/お昼寝~再度お着替え/お別れ帰宅、という構成。
その中で息子は勿論、他の子もいろいろと慣れない/大変なことばかりだった様子。 

微笑ましいエピソードとしては、おなじあひるぐみの中でも息子と同じ静かなタイプのS君という子がいて、その子がお昼寝の時間、いつの間にか息子のふとんにもぐりこんで一緒に寝ていたということ。
ふたりはまだ友だちにもなれてはいないはずだけど、同じタイプ同士(とS君が思って)、安心できる相手として布団に入ってきたのかもしれない。

「この子に1人でも好きな先生やお友達ができて、そして1人でもこの子のことを好きになってくれる人ができたら、それ以上望むことはありません。」

これは僕の大学の後輩で、脳性麻痺の息子さんを持つ母親の言葉。
全く同じことを、僕も願う。
そしてそれが単なる夢ではないことを信じている。
園には信頼できる先生・スタッフの方々がいっぱいいて、そして何より、息子のちからを信頼しているから。

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今日の息子、まだお昼寝してくれません。

「ねむねむする?」と訊いたら、パパの手を引っ張って寝室に連れて行き、パパを寝室の中に押しやってから自分はまたリビングに戻っていきました。

【寄稿】息子、園のおとまり会に参加しました(2010.07)

7月の土・日の二日間、の通う園にて”おとまり会”というイベントがありました。
園に通う年少から年長までのすべての子どもとその保護者、職員らが一晩を共に過ごし遊ぶという、まさにこの夏のビッグイベント(on我が家)。

以下、園の保護者会のブログに送った原稿です。

初日、冒頭の【はじまりのつどい】で、オープニングの盛り上げ係に立候補したパパの打合せ集合時間が9:30。
しかしいろいろバタバタして、家族で家を出発したのが9:30、園に到着したのがつどいの開始5分前…。
”こっちですよ!”と呼ばれて控え室で既にスタンバイ済みの先輩パパの皆さんに”スミマセン…”と挨拶。
”じゃぁ、ウォータースライダーの所に走っていって実演ね!”とかの無茶振りにも”ハイ、何でもやります!”と覚悟はしていましたが、やさしい先輩パパがそのようなことを実際にやらせることもなく、本番ではただ先輩パパらの後について踊り出ながら、一番最後のセリフを叫んでいました。あっという間の本番でしたが、ご迷惑をおかけしました。改めて申し訳ありません。

つどいが終わるといよいよ本格的におとまり会イベントの始まりです。
園内に特設の【なぎさランド】で子どもと一緒に水遊びです。
我が家の息子を、園舎裏の噴水あそびの場所に連れて行きました。息子は初めての状況に慣れるのに時間がかかるタイプで、暑い中で気持ちいいはずの水あそびも楽しむ気分ではなかったようで、ずっとパパにしがみついていました。

その後には園庭プールですべり台にもチャレンジしたのですが、周りに人が多いこともあり、”?””?”とずっと困惑気味でした。
それでもパニックにまではならず、少し泣き顔になりながらもじっと辛抱していたのはわが息子ながら立派でした。

【なぎさランド】の時間も終わり、昼食休憩をはさんでいよいよパパたちのメインイベント、【300人分のカレー作り】です。
我等が地域グループは意気揚々と”かまど隊”に立候補したのはいいものの、想像以上に暑い/熱い!真夏の炎天下でマキをくべながら大ナベでひたすらカレーを煮続けるなんて、やはりどこかにMの気がないとできるものではありません。 
本当は火を炊きながら、”♪かーまど、かーまど、暖めよう…♪(『火い付けた!』)と、夜の出し物の唄の練習をしようかと思ってましたが、とてもそれどころではありません。何度も水分補給+塩飴をなめながら頑張ってみました。
それでもかまどで頑張って良かったのは、切った野菜を子どもたちが大ナベに入れにくる姿を間近で見ることができたことです。
ママに助けられながら、ある子は慎重に、またある子は誇らしげにひしゃくで野菜をナベに入れる姿に、それぞれの子の”やりとげる”頑張りを目の前で感じることができました。
うちの息子もママと頑張りましたが、自分が何やってるのか判っていたのかどうか(笑)。
食べ物へのアンテナはとても敏感なので、大ナベの中の大量の野菜と肉を凝視していたようではあります。 

また、その野菜入れのセレモニーでママと子どもが歩くシートが熱すぎたり、かまどの前にケガ防止で掛けてあった毛布に引火したりのトラブルはありましたが、かまどの配置・取り扱いともにバッチリ覚えましたので来年も大丈夫です。

日差しも傾いて屋外でも幾分過ごしやすくなった夕刻、いよいよみんなで【カレーをいただきまーす】。
パパが責任持って?煮込み、大きな柄杓でナベに取り分けたカレーです。息子も落ち着いて食べてくれました。

夕食の後、屋外の片付けや屋内でのレクレーションがあり、いよいよメインイベントの【キャンプファイヤー】。
初めての夜の野外、初めての炎。興奮して飛び込んでバーベキューにならないように、座る息子をしっかり見守ります。

上にも書きましたが、初めての経験/対象物に対しては用心深い息子なので実際にはそう心配することはありませんでしたが、年長さんのトーチ点火にはじまり、兄弟班のみんなが走り回る姿や年長ママさんたちの踊り、そして火の粉を上げる炎に対して次第に気持ちが高ぶったようで、椅子から立ち上がってじっと見つめる様子から、楽しんでくれていたようです。
そしていよいよ炎の前でのパパたちの出しもの、『みいつけた!』の合唱。
”楽器ができるパパは何でも持ってきて参加してください!”という事前のアナウンスで、私は小さなコンガを持参していました。

パパが炎の周りに並び準備できたものの、バックに流れるはずのCDがなぜか無い。
これは生演奏を頑張らねば!と炎の周りを歩きながら歌に合わせてポコポコと叩いておりました。
自分も歌おうとするとリズムがヨレるので手元だけに集中しました。
ちなみにママ曰く、パパたちは炎をバックにして子どもたちに向いて立っていたため、”黒いシルエットだけで誰が誰か判らんかった~”そうです(苦笑)。

メインイベントの後ママたちは子どもを寝かしつけ、その間パパたちは【学習会】として園出身の先輩パパお二人のお話を聞きました。 
お二人のお話の共通点としては”ママを大事に、育児の手助けを”ということ。頭では判っていても、仕事の都合や考え方の違いで思うようにできない/そう簡単ではないことは、私自身も今いろいろと悩んでいることではあります。
でも、今のそのような悩みは、子どもの将来に待ち構えている様々な困難に比べれば恐らく大したことではありません。
逆に言えば、将来のことを考えると不安でしょうがないことがあります。
…そんなことを、その後の懇談の場で講演されたパパに話したところ、”僕も将来のことは不安だし、考えようがない。だから、今できることを一生懸命やります”という旨の言葉を頂き、少し勇気が出ました。
目の前にある子育ての問題も家庭の問題も、将来の子どもたちの生活につながる社会の問題も、今できることはいくらでもあります。
それらに一つ一つ取り組むことが将来につながっていくことを信じるしかないですよね。

一日目の夜は子どもたちが寝たあとの【懇親会】で〆です。
ママどうし/パパどうしでの交流の場面は今までもありましたが、夫婦そろっての懇親会はとても面白かったです。
写真がないのが残念なくらい。
その後パパたちはどれみホールで就寝です。
冷房が効きすぎて皆タオルケットをすっぽりとかぶって寝ていました。
我慢せずに温度を上げに行けばよかったな。

翌朝、二日目。
フィナーレに向けて時間は過ぎていきます。
パパ/ママそろっての朝ごはん。いつもの家でのメニューではないので息子の機嫌はどうかな?と思いましたが、食べ物の好き嫌いはそれほどないので落ち着いてくれました。

昨日のキャンプファイヤーの片付けや普段の園庭に戻すための遊具移動等、パパたちの力仕事もまだ残っていましたが、昨日張り切りすぎて腰に来た私はさりげなく軽作業中心に。 
全体的にそうだったのですが、屋外での作業を進めるにおいては明確な指示書や工程表があるわけではなく、その場での判断や先生とのやりとりでどんどん作業が進んでいきました。
ある意味、パパたち各自の判断力や”仕事を創る”姿勢が問われた2日間でもあり、互いにいろいろと工夫して改善できる部分もあると思います。今後のやり方の課題ですね。

【おわりのつどい】にて、長かった(?)おとまり会もフィナーレです。 
ママと分離されていた年長さんの再会する姿に少し涙。
うちの子どもも数年後にはあのような形で親と離れて頑張れる姿を目指して、これからも頑張っていけますように。

お世話になった先生方や周囲のパパ/ママとお別れして帰途につきました。 
家に帰り、その午後はさすがに家族3人とも静かに横たわっていました。
その夜、言葉こそありませんでしたが、座っているパパのところに正面から息子が近づいてきて、じっと目をみながら”どう、僕やったでしょ?”とでも言いたげないい表情をしてくれたのが嬉しかったです。

おとまり会に参加するにあたってどうしても守りたかったことは、”家族3人、二日間無事にケガなどすることなく過ごすこと”でした。
なにしろ、親にとっても子どもにとっても初めてのことばかりです。
息子が落ち着いて2日間過ごせるのかという心配や、息子だけではなく親の体調の心配もありました。
しかし終わってみれば、想像していた以上の素晴らしい経験/自信を親子ともども頂くことができたことを、園のスタッフの方々、そして他のパパ/ママ/子どもさんに感謝するばかりです。
きっとこれまでの会も素晴らしいものだったのでしょうが、来年、再来年ももっと素晴らしいおとまり会が実現できるよう、積極的に参加していきたいと思います。

ここから先は蛇足ですが、

パパ自身も今回初めての参加ながら、先輩パパたちに混じって(あるいは先輩パパを差し置いて)様々な場面で出しゃばらせていただきました。
そうやって”出しゃばる”ことは、一番最初のパパ会に参加したときに自分で決めたポリシーです。
まず、園やパパ会が用意してくれる様々な企画・試みに対しての、また日ごろの療育に対しての感謝と敬意を表するには、積極的に自分が参加することでしか表現できないと思っています。
また、息子が発達していく上で今後、園や社会の中で多くの人々にお世話になり協力してもらう必要を強く感じています。
そのためにはまず自分の顔を先生や他のパパ/ママに知ってもらわなければいけません。
そして単純に本人が”目立ちだかりのええ格好しい”ということもありますが…。
ともあれ、これからもママ・息子ともども、どうぞよろしくお願いします。

(終わり)

田舎に帰りました(2011.08)

【金曜日】

新幹線の出発時間は11:30、10:45に予約していたタクシーで自宅から駅まで移動。
送れるものは前日までにまとめて宅急便で送っていたとはいえ、多少の手荷物はあります。
路面電車・バスにより移動することも考えました(息子は車窓から動く景色を見るのは好きです)が、確実な手段としてタクシーを選びました。

市の障がい者(児)向けの助成制度の一つとして、”公共交通機関での移動支援”があり、金額に上限はありますが毎年タクシーチケットの発行をしてもらっています。
病院に行く際やこういう特殊な移動の際にはありがたく使わせてもらっています。

広島駅に着いて新幹線の改札を通ったのが11:過ぎ。ゆったり余裕があります。
息子はうろうろと動きたがるので余裕がありすぎても少し困るのですが、新幹線の構内の隅っこでしばらく待ってから(搭乗する便が到着する頃を見計らって)ホームに上がりました。

新幹線は1ヶ月前から療育手帳を使って個室(多目的室)を予約していました。
短い時間ですが、帰省ラッシュの時期に個室で帰れるのもありがたい話です。

乗り降り口を挟んでトイレの正面にある多目的室は二人掛けのソファベッドがあります。
ソファをベットにして広げるとそれで部屋がほぼいっぱいになる程度の広さを想像してください。
室内には手洗いやトイレ等の設備はありません。

外の景色が見えればいいのですが、新幹線なのでトンネルも多く、それほど楽しい車窓ではありません。

息子は新幹線は今回が初めてではありません(昨年末に東京まで、やはり多目的室で往復しました)が、小刻みな上下振動(と緊張)で少し気分が悪くなったみたいです。

いつもならパクパクと食べるお昼ご飯も、ほんの少しだけ口にしただけで、私の膝によりかかり、乗車から1時間後に寝入りました。

持ってきていた新聞紙を冷風避けに。室内にあるブザーを押せば乗務員がやってきて毛布等の貸出もあったと思いますが、一度個室に入るとそういうことも”面倒くさい”のですね。 
ドアが開くとそこは通路ですし部屋の中は丸見えになります。自分がトイレに行くのも我慢しました。

息子も眠ったことだし、持ってきた本でも読もうかの…と夏休みの課題図書を広げましたが、ゆっくりする間もなく目的地が近づきました。
1時間眠った息子を起こして部屋の中を片付けてベッドを畳んで、下車準備。

新幹線の終着駅ではなく、その1つ前で降りました。
兄が車で駅から実家まで送ってくれました。

下車すると、ホームばぁばがお出迎え。昨年6月の家族参観以来の、久しぶりの再会ですが、素直に手をつないでくれてまず一安心。

兄と一緒に出迎えてくれたのは姪っ子の小学2年、杏(仮名)です。
ダルビッシュ似のシャープな顔立ちの素直で可愛い子です。
3人姉妹の末っ子で、いつもは世話される側なので、うちの息子にいろいろと世話したくてたまらない様子でした。

実家に帰りついて一休み。実家でスイカはお約束ですね。


兄親子はすぐに帰ってしまいましたが、夜になって、じぃじとも再会できました。

本日は、一休みして、晩ご飯を食べて、お風呂に入って、いつもの絵本を読んで、おしまい。
短い時間ではあったけれど、新幹線での移動という一大イベントを無事終了できて、今日はそれだけでOK。

晩ご飯を食べながら、父母に家人の話をしました。

病気のこと、入院のこと、そして夫婦仲のこと。

なるべく言葉を選んで、家人が悪者にならないように話したつもりですが、重苦しい雰囲気が伝わったと思います。 

話すなかでなにかの結論を出すことが目的ではなくて、状況を聴いて欲しかった。
その目的は、一応達成されたのかとは思います。

【土曜日】

朝ごはんを食べて、町内の散歩に出かけました。

在来線の駅正面から撮影したこの町のメインストリート。…何もありません。
私が20年前まで住んでいたこの町は、国道沿いの温泉街として以前はもう少し建物もあったのですが、近年過疎が進み、道路の拡張工事だけは進んでいます。

この通りも、昔住んでいたころはもっと広く感じていたのに、車が対面通行するのがやっとの狭さです。

かつてはいろいろな店が並んでいた温泉街の街並みも、見通しの良さだけが目立ちます。

…何もないことは判っていましたけど、本当に何もなかったです(苦笑)。

午後からは父母と4人で、車でお出かけ。まずはご先祖の墓参りです。

何かを感じたのか、ちょっとイヤーンな機嫌になりました。

そしてその後は、この夏のメインイベント、”海水浴”です。
地元の海水浴場に浮き輪を持って意気揚々と向かいました。

本人は海を見るのも触れるのも全く初めてです。
海岸から波打ち際に近づくのもおっかなびっくりで、パパが体を抱えて半強制的に海の中に入り、浮き輪にしがみつかせたまま浅沖まで進んでいきました。

約30分弱、泳ぐでもなく”浸かる””うきわで漂う”だけの初体験で、本人も緊張の様子でしたが、そんなに悪くはなかったとは思います。
塩分補給もできただろうし。 
ちなみに海水浴場ではGLAYがガンガンにかかってました。

帰ったらまたスイカ。

ちなみにこの日の夜は、食いしん坊の息子も殆ど晩ご飯を食べようとせず。初めての海経験に神経が高ぶったのかも? 
食べさせるのはあきらめて、夜8時には就寝しました。パパも疲れていましたので…

【日曜日】

夜中から大雨が降り出して、日中も曇天。昨日のうちに墓参りと海に行っておいてよかったです。

曇天の下、何もない田舎の散歩。何もなくともそれなりに草木の匂いや街とは違う空気を感じてくれたかな?

自分が子どもだったころに公園だった場所に行ってみましたが、道路/宅地造成中で公園自体が無くなっていました。
公園の中にあった神社の社もテキトーな感じで仮設されていました。

ドアにくりぬかれた穴から賽銭を投げ入れます。 誰 が 入 れ る か !

午後からは兄の家族ふたたび。

「墓参りに行く」というので、どうせこちらも暇なので、一緒に車に乗せてつれていってもらいました。
2回目の墓参りのあとは海のそばの道の駅の物産館に。

ちょっと疲れたのか、家に帰ってきて夕寝。 
姪っ子は寝ている息子にもやたらとかまいたがり。

姪っ子三姉妹(中2、小5、小2)の通信簿を見せてもらいました。どの子も優秀でした。
中2と小5のふたりはちょうどこの時期に東京に行っていて逢えず。

長女は個性派の腐女子でライトノベル好きの美術部員。
次女は正統派美少女で勉強もスポーツも優秀という完璧超人。でも完璧すぎて、いつか壊れるのんじゃないか、というのが父親の心配。

どんな子どもにでもそれぞれの親の悩みはあります。

晩ご飯を食べていたら息子も起きだしてきました。

兄の家族と息子が逢うのは3年ぶり。
息子が覚えていたのかどうかは判らないけれど、特に戸惑う様子もなく(かといって愛想をする息子でもないけど)、自然にそばで過ごすことができました。
むしろ人がたくさんいて賑やかなことによって、本人も心なしか上機嫌だったようです。

母が食事に出してきた皿のひとつは、約40年前に自分が子どもの頃に使っていた皿。
わかる人にはわかると思いますが、昭和40年代テイストのデザインです。

兄家族は帰り、お風呂に入って、今日もおやすみ。

【月曜日】

もう帰る日です。あっという間でした。
昨夜から雷雨で、JRが動くかどうか少し心配しましたが、昼前になると問題なく雨も止みました。

新幹線の駅まで、在来線の列車に初めて乗りました。人ごみとか大丈夫かな?と少し心配したけれど、外の景色や人の乗り降り(車両の自動ドア)を楽しんでいたようです。

新幹線に乗ってから広島までは再び個室。熊本にさしかかる頃から大粒の雨が降り出して窓に激しく当たるのにビックリしたのか、日除けの上げ下げに忙しい息子でした。

何事もなく無事広島に到着。ふたたびタクシーで家まで帰りました。

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振り返ると、初めての経験/初めてではないにせよ日ごろ馴染みのない土地や出来事、人々ばかりの4日間でしたが、大きな戸惑いや混乱をまったく起こすことなく無事に乗り切ってくれた息子でした。これがもし1年前だったらきっと難しいことばかりだったと思いますが、本人もいろいろなことに余裕ができてきたんだなぁ、と確認できた夏休みでした。

おしまい。

実家で息子が遊んだタオル地の牛のぬいぐるみです。「またおいでね!」