2017年(第90回)の米アカデミー賞は、『シェイプ・オブ・ザ・ウォーター』と『スリー・ビルボード』が作品賞を争った。

受賞したのは、冒頭からラストシーンまでの、脚本/音楽/美術等の全ての要素が全て計算し尽くされた交響曲のような『シェイプ・オブ・ザ・ウォーター』だった。

それに対して『スリー・ビルボード』は、フリージャズのように先が全く予測できない意外性と緊張感が最後まで続き、それだけに“あの”ラストシーンがもたらす安堵感は余韻を残すものだった。

全く別の言い方をすると、『シェイプ・オブ・ウォーター』は、現実世界に見切りをつけた上でのハッピーエンドを描く“おとぎ話”で、『スリー・ビルボード』はバッドエンドを匂わせながらも現実世界の過酷さの中に確かに存在している希望や温もりを最後のシーンで掬い上げた“ドキュメンタリー”という、切り口の違う映画としてそれぞれの価値があったと思える。


自分自身のこれまでの人生/半生における出来事や題材の中から一本の映画を作るとしたら、それはどんなジャンルであり、またどんなラストシーンで締めくくられるだろうか。

物語のジャンルは「青春もの」「立身出世もの」「恋愛もの」と様々なものがあると思うけれど、どのジャンルであっても、自分の物語をバッドエンドで終わらせる人はいないと思う。

哀しい出来事があった物語であっても、それまでの課程の中でいちばん輝いた瞬間をラストシーンとして、その後の哀しい事実はエピローグとしてそっと触れる程度に留めるのではないだろうか。

あるいは、哀しい出来事を描写しながらも未来への希望を託すような終わらせかたを行ったり、その映画の“続編”の存在をほのめかすような締めくくりをするのではないだろうか。

そんなやりとりを、『スリー・ビルボード』を観た古い友達とSNS上でやりとりした。

友達はいろいろあって、自身の物語の続きを紡げるだけのエネルギーを失ったままだ。

私も友人も、最後のページは開かれるどころか、まだ書かれてもいない。



角の犬に吠えられて 銭湯の湯は熱すぎて家

浮気をしては仲直り そしてそれはひどい間違いだった

暮らし始めたら 何かが変わるような気がした

君の古着のスカートをたくし上げたら

愛を じれったいような愛を 渡しあった夜は薔薇色

物語は続く2人の思い通り

最後のページ 開かれないストーリー

ただ君を想い 幸せを願い 暮れゆく黄昏の中にいた

生きてる それだけが 代わりのないストーリー

いつまでも君の横顔を見ていた

(2018.05)