各所での評判を確認するために購入。

本屋の駐車場の車の中で読み始め、『夕凪の街』の風呂屋でのモノローグシーンで嗚咽がとまらず、『桜の国(2)』の桜咲く橋の絵とモノローグで滂沱した。

いまから十数年前に、自己発展の場として広島の地を選び、出身県の訛りよりも広島弁がスタンダードとなり、おそらくこの地で家族そして墓をつくることを感じはじめている今の自分。

でもそれらは全てひょっとしたら、このマンガに出会うための必然だったのではないか − そんなことすら感じてしまう。

『夕凪の街』でそっと語られた誰もが知る悲劇が、『桜の国』においてふとした望みを見せてそっと締めくくられる。

しかし、救い/希望はあっても、また終わりはない。

なぜなら、

「十年経ったけど
 原爆を落とした人はわたしを見て
 『やった! またひとり殺せた』
 とちゃんと思うてくれとる?」

という問いかけに対する答えを、まだ皆実は聞いていないのだ。

そしてこれからも、”これだ”というひとつの答えは出ないだろう。

答えを出すのは特定の誰かではなく、【戦前】であり【戦中】である現在(現代は【戦後】ではない。軍隊が越境し、そして世界に核が存在する以上、【戦前】であり【戦中】なのだ)を生きる、私たちすべての”生きのこってしまったもの”一人ひとりの使命だから。

でも、私はできるものなら答えを聞きたい。

60年前のあの日に原爆を落とした人の口から、「知らなかったんだ」「そんなことになるとは思わなかったんだ」という、子供の戸惑いのような答えを聞きたい。

全ての結果が計算された上であの爆弾が落とされたということを認めたくない私は、ごくわずかな人間がその数万倍の数の人間の生殺与奪を握っていた(そして今も握っている)ということを認めたくない私は、きっと甘ちゃんなんだろう。



100ページ足らずの薄さのこの本を書店で手にとったときは、”期待はずれだったらどうしよう?” ”中古市場での買値は今いくらくらいか?”なんて考えた。

そしてそんなことは無意味だったけれど、”ソフトの値段とはどうやって判断するのもなのか”ということを改めて考えた。

例えば「映画代」というものがある。

定価の1800円で見るということは自分にとっては有り得ず、割引チケット等を駆使して平均するとちょうど800円くらいでいつも見ている。

しかし、一時停止も巻き戻しも効かず、リアルタイムの体験の後は自分の記憶の中で反芻するしかない映画代の800円と、なんども読み返し噛みしめながら味わうことのできるこの本の800円とは質が違うことに気づく。

自分はきっと、これから死ぬまでの/そしてその後の世代に伝えるための”哲学”を800円で手に入れたのかもしれない。