【土曜日】
僕が会社休みの時には、双方の気分転換のため、なるべく家人には外出してもらっている。
家人は洗濯をすませ、街に出かけた。
午前8時半、起きてきた息子の熱を測って、着替えさせて、納豆ご飯を食べさせる。
ご飯は以前は自分でスプーンを使ってなんとか食べれていたのが、昨年11月に高熱が続いた時以来、それもやらなくなってしまった。
食後こちらが台所の片付けをしている間に息子はウンチ。
おむつを替えて、またテレビに相手をしてもらっている間に寝室の掃除をして、昼ご飯の下準備に野菜を刻む。
天気が良くて暖かければいつもの公園に、と思ったけど曇りなので外出は無し。
かわりに、寝室の布団の山を登ったりゴロゴロしたりで、多少は運動不足になったかなぁ…と気休め程度には思う。
お昼はチャーハン。
休みの日のお昼は、炒め系の飯ものか麺ものを作って食べさせる。
根が貧乏性で味付けがチマチマしているので何を作ってもパンチ不足の”やさしい味”になってしまうけど、パクパク食べてくれるのはありがたい。
少なくとも、父ちゃんが時々ご飯を作って食べさせてくれたということは本人の記憶に留めておいて欲しい。
昼のあとはまたウンチ。
しばらくはテレビをつけつつも、昼寝させるために”はい、ネムネム、テレビはおしまい”とコードを抜いて手の届かないラックの後ろに隠す。
息子、テレビの前で憤慨してこちらに泣きついてテレビの前でハブテ寝して、そのまま眠りに付く。
今日は割りとスムーズだった。ブランケットをかけてあげて、しばらく一緒に眠る。
ひとりで起きて、眠る息子の横でPC。
youtubeやニコ動でひさしぶりにBAZRAに聴き入る。
納戸の段ボールにしまいこんだCDをひっぱり出したくなる。
本当にもっと評価されてもっと活動して欲しいのに全くその気配はない。
サンボマスターがブレイクしたのなら彼らがブレイクしてもいいじゃないか。
少なくともブサンボほど自意識過剰じゃないし押し付けがましくもないぞ。
夕方5時。
たけのことじゃがいもを切って煮る。
夜寝なくなるのも困るのでいいかげん息子を起こすために、テレビをつけて『クインテット』を流す。
むっくり起きた本人の機嫌が悪くなる前にバナナをあげる。
6時すぎにでっかいウンチ。
晩御飯の支度。
息子には昼のチャーハンの残りと前の日のおかずの焼き魚。
病院でもらったかぜ薬はバニラアイスにまぶして毎食後服用させる。
家人が帰ってきて、息子にはピタゴラ装置のDVDを観てもらいながら、大人の晩御飯。
たけのこの煮物は相変わらず”やさしい味”。
台所を片付けて、家人は先に風呂に入り、その間は寝転がった息子の足をこちらの足の上に乗せて読書。
キングの『呪われた町』の再読も佳境に入った。
昔読んだときはそれほど面白くなかったのに今すんごく面白く読める。
吸血鬼の親玉・ストレイカーと対峙するキャラハン神父が、信仰心の揺らぎを突かれてあえなく滅ぼされる件は、そこに至るまでのキャラハン神父の心理的な葛藤と再生が第二次大戦以降/科学絶対主義社会における宗教の社会的位置づけと絡まり知的かつ生活感深く描かれて、読んでいてゾクゾクした。
キリスト教と悪の関係の描き方が類似するジョン・プアマンの『エクソシスト2』を再観したくなった。
【日曜日】
朝6時に起きてこの文章を途中まで書く。
息子は朝8時に起きてきた。
着替え、ごはん、台所の片付け、近所のスーパーに買い物、昼ご飯の準備と主夫モード。
今日の天気は、空気は少し冷たいけど雲ひとつない蒼穹。
昼前に息子を公園に連れ出す。長らく外に出ていないからどうかなぁと思ったけど外出用のパーカーを見せると素直に理解して自分で玄関の明かりのスイッチを付けて上がりかまちに腰を下ろして靴を履かせてもらうのを待ってくれている。
手をつないでエレベーターに乗って、光まぶしい街路に出発。
公園は玄関ドアから2、3分程度の距離だけど、息子が自分の足で歩いて行くようになったのはこの2ヶ月くらいのことだ。
身体機能が未成熟なためときどきリズム/バランスが悪くなるけれど、嬉しそうに手をつないでとことこ歩いていく。
公園では既に数人の子どもたちが思い思いに遊んでいる。
公園に連れていく時間はいつもなら、子どもが少なくなる正午少し前なのだけど、今日はそれよりも早い時間に連れてきた。
もし息子が気後れして家に戻るようであればそれもしょうがないと思ったけれど、息子は入口で少し考えたあと、公園の中に足を踏み入れていった。
すべり台の黄色い鉄段を昇り、網の上を渡ってらせん階段を下りて丸太の間を歩き、別のすべり台へ。
このいつものパターンを守ることが息子にとっての”公園でのルール”。
今日の公園には少なくない子どもたちが遊んではいたけれど、うまいぐあいにこのパターンのルートには他に誰もおらず、息子もスムーズに遊びに入っていけることができた。
公園の砂場では、近所に住むお友達(であってほしいけど、息子には”友達”の概念がない)のKちゃんとそのお母さんが居た。
Kちゃんは息子が好きで、近くによってきてくれるのだけど息子は目も合わさずマイペースなまま。
とは言ってもKちゃんのこともそのママのことも存在自体は認識していて、何となく嬉しそうな表情も見せてくれる。
しかし、息子とこうちゃんの距離がだんだんと近くなって、互いの親が写真でも撮ろうか、としていた矢先のこと、息子の前に周り込んで座ったこうちゃんに、息子がいきなり手を伸ばしてこうちゃんの髪の毛をつかみ、頬を爪で引っかいた。
Kちゃんの白い頬に血がにじんでいる。
痛みよりもショックで、Kちゃんの笑顔が消え視線が曇った。
息子はKちゃんから離れて、公園のフェンスそばに一人たたずんでいる。
息子の特性に関連して最も気がかりだったこと、”他者との良好な関係維持の難しさ”を目の当たりにしてしまった。
息子はフェンスの向こうを無言で見つめている。
本人がKちゃんの存在を意識していたからこそやってしまった事には違いない。
でもなぜそんなことをしたのかは、本人にさえ判らないことかもしれない。
こちらもこんなとき、どんな態度を息子にとれば良いのか判らない。
叱るべきなのか、Kちゃんと同じく動揺している気持ちに黙って寄り添うべきなのか。
その後ブランコで遊ぶKちゃんのところに息子を連れて行って”ごめんね”と一緒に謝る。
…いっしょに、という表現は妥当ではない。
息子の心はどこにあるのか判らなかったから。
ふらふらと公園の出口に向かう息子。
当て所も無い様子で歩いていこうとする息子を抱っこして、家に帰ることにした。
普段なら抱っこされる時点で嫌がる息子なのに、黙って大人しくしていた。
やはり本人も何かショックだったようだ。
家に帰り、不透明な感じの息子を横目に昼ご飯を作る。
今日は高菜チャーハン。ピリカラの高菜のおかげで、いつもの”やさしい味”も多少はメリハリがついた味に。
ご飯はいつものようにはぐはぐ食べる息子にとりあえず安心。
息子の心理面が少し気になりつつも、息子を家人に預けて109シネマズ出かける。1ヶ月ぶりの映画館。
目当ては公開前から期待していた『第9地区』。
観れてよかった!P.ヴァーホーベンの黒いユーモアと深作欣二の俊敏性を兼ね備えた娯楽傑作。
主人公二人がボロボロになりながら”最後の希望”に向かって抗う場面は泣きながら観た。
映画後は隣接するアカチャンホンポで息子の消耗品を購入。
片手におむつの段ボール、片手にジュースのペットボトル複数を下げ、えっちらおっちら車に乗り込む。
休日の商業施設は人大杉でそれだけで疲れる。既に眠い。
帰って息子ご飯、大人の晩御飯、片付け、しばしの休憩、お風呂。
息子は夜になるとテンションが上がり、(両親が自分のそばに揃って嬉しいのか)寝る前にいちばん笑顔で元気になるパターンなので、こちらの疲れ曲線とアンマッチになること多し。
でもこれまでも夜泣きはしないのでそれはいいか。
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僕らの休日はほぼこんな感じ。
うまくいくことばかりではないけど、息子といっしょの時間を多少なりとも心安らかに過ごすという目的は果たせている。
課題は、もっと息子の遊びの幅が広がってくれれば、ということ。
公園で体を使って遊ぶ以外にも、おもちゃを使って部屋遊びしてくれないかな…部屋中ではもっぱらテレビ(お気に入り番組の録画のリピート)ばっかりなので。
”絵本を読むかわりにテレビを見ている”と思えば良いのか。
(たぶん良くない)

