故郷の父が倒れ、介護する長男のもとに帰郷した次男と妹。

既に中年でありそれぞれの人生を歩んできた彼らはそれぞれの苦労や蟠りを表出させるけれど、それは気のおけない故郷であればの振る舞いだろう。

物語の大半で描写されるのは、彼/彼女らに加えて近隣の住人らの間での、さまざまなかたちの[愛]についてのエピソードであり、そこがフランス映画らしい。

終わる愛、始まる愛、永遠に続く愛、それらを後目にしながら長男は父の介護や父から引き継いだレストランの運営、山林の維持のために黙々と体を動かす。

寂れて死に行く故郷の漁村をわずかな灯りをともし続けるように。


この映画の舞台はフランス/マルセイユから西の海沿いの小さな漁村メジャン。

マルセイユ出身のゲディギャン監督は本作の3人きょうだいを演じるメインキャストの3人と、故郷沿岸の地域で長年にわたり映画をとり続けてきているそうだ。

(それらの過去の映像も印象的に挿入され、青春時代の3人が無邪気にじゃれあう姿も印象的だけれど、村が栄えていた頃のクリスマスの映像が鮮やかで活気に満ちていて素晴らしい。)

そのことを踏まえると、この映画の中心になるのは漁村そのものの現在の姿であり、長男が村に関わりつづけていく視点が監督の視点そのものなのだろう。


そう考えると、難民問題をドラマの中に差し込んでくるのも、海をはさんで中東各国が位置する故郷の今後に向けた監督の提言のひとつなのかもしれない。

言葉を発しない子どもたちが漁村の生活に馴染んでいく様はグローバリズムの現れであり、ラストシーンで子どもたちの呼び声が起こす小さな奇跡は、[死に体]のこの村の未来に向けた希望を描いている。


何よりも、それまでの蟠りやいざこざをほんの些細なことにしてしまうような子どもたちの真っ直ぐな眼差しと“握りあった手”の尊さ。

“握りあった手”は別の場面でも「どこまでも共に」という意味の象徴として印象的に登場していた。

かつて恋人同士だったふたりも、住む世界や年齢の違いが大きく異なるふたりも、これから離れてしまうことがあっても互いに手を差し出しあいながらこの先を模索していくのだろう。

それでいいと思う。