物語のアウトラインにも作者についても、何も知らない状態で読んだ。(図書館に予約した時にはあらすじくらい目にしたかもしれないけど、それから8ヶ月が経過しての貸し出しで、記憶にはない。)
元・森ガールでアラサーで両親と同居中で社会的な身分も地位もない主人公。
それがこの小説のメインターゲット読者層のイメージなのだろうけど、それらに何ひとつ当てはまる要素のない自分でも、簡潔な情景描写と活き活きとした人物造形と目まぐるしい展開で一気に読まされてしまった。
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地上から月を見上げることは数多くあるけれど、こちらから見える月の表情は常に同じものだ。
月は地球の周りを常に自転しながらも公転している。
ぐるぐると回って/周っているのなら違う表情が見える機会もあるはずなのにそうではないのは、長い年月の中で地球の引力の強さによって回転する軸が地球側から垂直に固定されてしまったからだそうだ。
(皿回しの棒によってぐるぐると回っている皿の裏側を、真下から見上げている状態だろう。)
月の違う表情を人類がその目で見るためには、地球と月の引力圏内から宇宙船でいちど遠く離れていつも見ている月の反対側に行くしか方法がなかった。
そうやって見ることのできた面を「月の裏側」と言うけれど、裏でも表でも見ているのは同じ月であることには間違いはなく、さらに言えば、球体の表面上でなだらかに続いている部分を「裏側」と呼ぶのも少しおかしい気がしてくる。
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家族という惑星系、職場という恒星系、そして恋人という連星系の軌道の中で、それぞれの登場人物が動いている。
たとえば家族という強い相互の引力関係の中では、互いに固定された側面の人物像を見ることしかできない。
逆に、いったん家族の圏内から離れることや、家族圏に対して外部から強い力が加わることによって、引力の影響が変化し、今まで見れなかった側面を発見したり、相手に対する評価が変化することもある。
ただし、どれだけ見えるものが変化しても、見ている対象はそれまで暮らしていた家族であることには間違いなく、それらがいきなり他の人物に変わったわけではない。
また、公転の軌道周期が違うもの同士が接近することも離れていくことも、多くの場合はそれを意のままにコントロールできるものではなく、外因的な要素の結果の積み重ねが予想しない軌道の交わりを生みだす。
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『自転しながら公転する』とはそういう物語だ。
章ごとに観測対象は変わりながらも、主要な登場人物たちそれぞれの自転と公転の様子と相互の影響を赤裸々に描写していく。
ただし、元・森ガールで人生の岐路に立たされた主人公が、自転と公転を繰り返して人間的に成長していく物語ではない。
彼女は身近な相手を責めることで自分の卑怯な部分に気づき、非日常に足を踏み入れることで自分の弱さを認識せざるを得ない。
そういった弱さ/脆さは他の登場人物たちにもそれぞれあり、理不尽なふるまいをする人も悪人ではなく、また弱者といえども聖人ではないこと、それぞれが自身の軌道の上で動きつづける存在に過ぎないことを実感させる。
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そしてその動きの末にあるものは何なのか。
雑誌での連載から単行本化されるにおいて追加されたプロローグとエピローグについては、それが有るものと無いものとでは作品の印象/温度が全く異なるし、“無いほうがよかった”という読者の声も無視はできない。
旧来的な価値観がアップデートされ続ける社会の中で、“結婚だけが幸せのかたちではない”とか“誰もが幸せになる権利がある”という価値観は、まだ社会の主柱にはなっていないにせよ様々な生き方を肯定するための軸として存在している。
しかしその価値観を全ての拠り所にすることによって生じてしまう別の危うさにある程度の歯止めをかけるように、
「幸せにならなきゃって思い詰めると、ちょっとの不幸が許せなくなる。少しくらい不幸でいい。思い通りにはならないものよ」
「恋愛関係だけが男女の関係じゃないだろ」
という言葉を、新たに追加されたエピローグの中で登場人物に言わせたかった筆者の気持ちはわかるような気がする。
