「人はかつて、森の神を殺した。」という、人の業の深さを覗き見る言葉ではじまり「生きろ。」というシンプルでプリミティブなメッセージで締められるこの予告編の段階で、既にこの映画が生半可なファミリーピクチャーではないことが語られる。
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西の国で引き起こされた、タタリ神による“死の呪い”を解くために生まれ故郷から旅立った若者アシタカ。
そして彼が出会う、エボシ御前、ジコ坊、“もののけ姫”サンといった登場人物たちは、皆すべて「生きろ」というメッセージを体現し観る側に訴えかける。
ただし、俗世の貨幣価値も知らず、戦乱の世界で人を殺めることにも後悔を覚えるアシタカにとっての「生きる」ことと、欲望/情念/憤怒といったギラギラした感情に裏打ちされた彼らの「生きる」ことは、本質的に異なるものだ。
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売られた娘や疫病患者といった社会の忌み者を受け入れ彼らによる国・タタラ場を築くために森を切り開くエボシ御前、[天皇のお免状]を武器にシシ神の首を求める策士家のジコ坊、そしてものののけと人のどちらにも居場所はなく、森を削る人間を恨み続けるサン。
「天地の間の全てのものを欲するが人間の業だ」
「小僧、貴様にサンの苦しみが癒せるのか」
エミシの王族としての誇りや高潔な正義感、全ての生きるものへの博愛といった[理想]が根底にあるアシタカの「生きる」ことの哲学は、彼らとの出会いによって揺らぎ、その根拠を問われることとなる。
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しかし彼は、自らの信じる「生きる」ことのありかたを、周りに対して身を呈して訴える。
「森と人が争わずにすむ道はないのか、本当にもう止められないのか」と。
身を呈するしか、彼に方法はないのだ。『天空の城ラピュタ』(1986)のパズー、『魔女の宅急便』(1989)のキキらと同様、彼はただひたすら、信じる道に自らの全てを懸けることで自らの存在価値を証明するために生まれてきたキャラクターだから。
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アシタカの奔走空しく、シシ神を筆頭とする森の獣神たちはすべて死に絶え、シシ神の力の暴走により森の生命の大部分も消滅し、タタラ場は燃え落ち、人間に対するサンのわだかまりは消えないままだ。
“死の呪い”はシシ神の最後の力により解かれたとはいえ、彼が全てをかけて求めた理想の代償としては苦い幕引きだ。
しかし彼は言う、「それでもいい」と。
理想が現実に破れたわけではない。
聖と俗、誕生と消滅、混沌と浄化、全てのあらゆる事象を自らの中に受け入れ、その中で「生きる」ことを賛歌できる若者に彼は成長した。
ただしそれも一つの通過点であり、「馬鹿にはかなわない」という最大のほめ言葉を受けて、彼はまた「生きろ」と自らに問い続けるだろう。
馬鹿の一つ覚えで、ひたすら、まっすぐに。
ただそこには、それまでの彼のように、眉間にシワを寄せて悩む[深刻さ]はない。
物事を[真剣に]捉える者だけが身につけることのできる「明るさ」がある。

